SSブログ

482. 蠟山政道=人事院月報第74号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 昭和32年4月1日発行の「人事院月報第74号」には、蠟山政道が「人事行政に望むもの」と題した巻頭文を寄せている。蠟山政道は、後に「行政改革の憲法」と評される第一次臨時行政調査会の答申(昭和39年)の作成に深く関わる。蠟山行政学は辻清明が継ぎ、辻行政学は西尾勝が継いでいく。「わが国の政治学および行政学の歴史的な発展期において蠟山政道は大きな足跡を残した」(今村都南雄『ガバナンスの探求 蠟山政道を読む』勁草書房、2009年)。
 蠟山の巻頭文全文を掲載する。

 人事行政の望むもの

 人事行政は政治の要諦であつて、古今東西いかなる政治形態においてもその理において変わりはない。「賢能挙用」とか、「治を為すの要は人を用うるより先なるは莫し」とか、「人を用うる者は、親疎・新故の殊無く、惟賢不肖をこれを察することを為せ」とか、いう文句に示されている儒教漢学の教えは、今日の実績、能力等を重んじるメリット・システムとその精神を同じくしている。徳川の封建時代においても、それは治政の要道であつた。
 しかし、人事行政とか人事制度とか、これを制度的にはつきりした目的と方法とをもつて統一的に総合的に人事を考えるようになつたのは、近代国家が成立してからのことである。しかも、注意すべきことは、その統一とか総合とかも、その契機となるものは一方的に統治権を把握している政府当路者の立場から持ち出されたということである。近代国家といつても、非民主的な国家においては、その政治形態に制約されて、人事制度も人事行政も、真の統一と総合とはもたらされえなかつたのである。
 この最もよい例は、戦前の日本の官吏制度である。明治政府によつて制定された官吏法の特徴は、かつて美濃部博士の用いられた表現をかりるならば、「公の勤務法」という言葉によつて示されている。その勤務ということも封建専制の遺制を脱していなかつた。その最も極端な現れは、明治20年7月勅令第39号の「官吏服務規律」である。有名な、その第1条は、この勤務というイデオロジーを最もよく現している。曰く「凡ソ官吏ハ天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主トシ法律命令ニ従ヒ各其職務ヲ盡スヘシ」と。その後、時勢の進展と共に、この勤務の観念の維持振作に困難を感ずるようになつた。官紀の粛正という政治的理由も加わつて、官吏の自覚と協力を求める方向に変つて来た。昭和9年岡田内閣当時の「官吏ノ粛正及行政ノ改善ニ関スル件」という内閣訓示はその一例である。もし、人事制度や人事行政の困難が、ひとり内閣の力によつてのみ打開できず、官吏自身の自覚と協力とが必要とされる問題だとなると、人事制度や人事行政はもつと深くかつ広く科学的に研究され、民主化とか能率化という新しいイデオロジーの上に樹てられねばならなくなる。
 しかし、どこの国でも、そういう新らしい研究は一般的にその発達が遅れていたのである。ファイナー教授の説くところに従えば、「官吏制度は政治的な意識をもつている人にとつては常に問題の一つであつたし、一般庶民によつては屡々厄介なものであつた。しかし、政治制度の科学的研究者にとつては、官吏制度は1880年頃に至るまで明らかに殆んど関心が払われなかつた。この時期において二つの発展が見られるに至つて、官吏制度はその問題が従来よりも非常に多くの人々の注目をあびるようになつた。……二つの発展とは個人主義対社会主義の論争を惹起した根本原因たる政府職能の増大がその一つであり、それと同時に政府職能の増大が官吏の数を増加し始めたことが他の一つの発展である。」このように、諸外国においても、官吏制度の研究が後れていたという一般的理由がある上に、わが国においては、さらに、官僚制度が根づよく発達していたという事情があつたので、官吏制度を民主化し、科学化する試みは到底行わるべくもなかつた。
(次回につづく)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:仕事

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。