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490. 金森徳次郎=人事院月報第76号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 昭和32年6月1日発行の「人事院月報第76号」には、金森徳次郎の「公務員のあり方あらせ方」と題した文章が掲載されている。彼は、第一次吉田内閣の憲法担当国務大臣である。

 公務員のあり方あらせ方

   公務員に対する基本的な考え方

 世間の一人として、つまり一般人として公務員を考えると、日々の新聞紙などを見て公務員に対する風当りがひどいことに目が付く。公務員の汚職の記事が目に付く、公務員の官僚風に対する悪口が目に付く、そして公務員の不親切、公務員の事務怠慢、公民の無能等のことが目につく、低い立場の公務員については、殊に現業第一線に立つ警察官や税務職員や、交通職員に対しては具体的な不平が露骨にあらわれることがある。そして比較的高い職責持つ人々に対しては、識見の低さや計画の不完全や事務遂行の勇気欠乏等について幾多の不満がなげつけられ、たとえば内閣諸大臣などは、文字通りに世評を読むと随分微小価値をのみあてられていることがある。これらの批判にも勿論意味があろうが、しかしそんなにつまらぬ公務員ならどうしてもつと何とかならぬものだろうか、苦情や非難の外にあつて、神の如く清く神の如く賢くまた神の如く公正なる公務員が生まれないものか。こんな空想も起こる。だが、人間を神さまにすることは不可能である。ひとり公務員ばかりに不平を持ちかけるのは無理であつて、不平は人間のあらゆる面に向けらるべきであり、この不平を健康な方法によつていやして行くところに人類の進歩があり、公務員に対する不平もその一端であるに過ぎない。我々は人間そのものに対して不平不満をもつているが、これこそ人間発達を希う心のあらわれであり、公務員に対する不平不満もそのあらわれの一つであり、そそてこれは多角的に考えて善処するの外はない。本来公務員は人間の社会生活の上に大変に重要な責任を有するものであるが、これとともに風当たりも強く、内部からも沢山の弱点があらわれ、そして人人はその美点を見ても当然のこととして看過ごし、その不完全な面には過酷な批判をし易いのであつて、その結果公務員に人材が集まらず、段々その品質に影響し好鉄は釘に作らずと言うような傾向を増加するのではないかと心配する。公務員の制度について考うべき問題は実に広汎多岐であり、そのありかたについて妥当の答えをすることは容易でない。断片的に巨魚の細鱗を評価する程度であるに過ぎぬのは恥ずかしいが今私としては止むを得ない。

   悪代官と托鉢僧

 水戸黄門の遍歴の物語などには、諸地方に悪代官があつて人民がいじめられるところがある。代官の官職を得るとその権力を活用して自分の利益を計る。その内容としては税金を重くして私腹を肥やす、権威をほしいままにして自分の勢力を高める。ひどい場合には町人の娘を妾にとりあげる、好む人々に私恩を売つて他日のために勢力を養う工夫をする。かくして公私は混同され、人民は虐待される。昔の封建領主の典型たるローマのネロ王の雛形の様だ。この悪代官型は近世の日本の官僚や軍閥に沢山存在したかも知れぬ。くわしいことは知らぬが汚職的な事件が色々の形をとつてあらわれていることは誰も目にしていることであり、小人権柄をつかむと何を仕出かすかも知れぬことを思い知らせられる。小人権柄をつかめば、その周辺は悉く暗雲にとざされることは近頃の汚職事件などが大きな「いもづる式」集団によつて行われることによつて察せられるのである。日本敗戦の後のアメリカが日本管理政策を書いている書物を読むと、日本の官僚閥の恐るべき勢力によつて日本の行政が偏向されたことを論じ、日本の軍閥、財閥、官閥の三者を打破することの急務を主張し、現実にその手を打つて若干の官制に大変革を行つた。日本として不名誉極まることであつたが、理の当然の道筋は承認せざるを得ぬ。そして病患の若干が取り除かれたことは、残念ながら慶賀せざるを得ぬ。しかしこれは何と言つても官僚層全体の中の一小部分のことであり、殊に有力者有権力者の面のことであつて、一般吏僚の病気ではなかつた。一般吏僚はこのような悪気流の外にあつた。大部分は清潔な忠実な有能な勤勉な人人であつたろう、私は斯く信ずる。勿論どんな名玉にもレンズを通じて精査すれば多少のきずはあろうが大体において世界の水準を超えて立派な人達であつた。敗戦後の混乱期を早く乗り切り得たのもこの珠玉のような吏僚の功績による所が多い。しかし不幸にして一部人の悪疾のために善良吏人が誤解されたことが無いとも言われない。気の毒である。ただ悪代官型を警戒することは何よりも重要である。比喩的な言葉を用いて来たことの不明確さをさけるために言つて置くが、この悪代官型と言つたのは、職務権限を乱用して自分一身の私利私欲を遂げる人の意味である。
 今はあまり世上に見当たらぬが、それでも、局地的ではあるが托鉢僧と言うのがある。仏教修業者の簡素な服装をして、手に托鉢をもち、街路や村里を歩いて、お経を唱えつつ、人々から僅かずつの米銭の喜捨を受けて歩く人々である。この意味を私はこんな風に解する。僧たちは仏道を広め衆生の宗教的幸福を念願しこれに精進しているが、僧たちは野山の鳥や獣と違つて自ら生活資源をもたねばならぬ。それはこの喜捨を与えよと特に求むるのではないが、結果として衆生すなわち一般社会人がその生活をささえるのであると解する。宗教的な奉仕は直接な反対給付を求める訳ではない。公務員は私益を求めるものではないから悪代官型になるべきではない。私の気持ちから言えば托鉢僧型であるのが本旨である。ただ実際的には蒔かず刈らずして生きて行くわけにも行かぬのだからその生活費を公費で支えることが必要であり、この場合も工人や商人のごとく正確な交換経済の原理によるのではない。常識的な複雑な考がこれを整理してくれるのであろう。
 以上において私は公務員に関連して悪代官型、托鉢僧型および交換経済型を摘示した。私自身は理想的には托鉢僧型を念願するものであり、「白魚に価あるこそ恨みなれ」を嘆ずるものである。兎もかくも悪代官型は許すまじと思う。力や勢力のある所に利益が帰属することは力主義の世界には実存するが、美しい共同生活を願望し社会が連帯的に生存することを期待する正義主義の下においては適当な範囲で交換主義を是認するけれども本質的には托鉢僧型に重きを置きたい。くだいて言えば上層公務員に対しては少なくとも名誉職風の気もちを尊敬したい。憲法第15条で公務員は全体の奉仕者であることを明記しているのは正しい。そして国家公務員法が公務員の給与準則を定むるについても草取人夫や道路工事員の如き私経済関係の給付関係とあまりに同一視することには注意の余地があると思う。
(つづく)


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