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502. 辻清明=人事院月報第81号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 1957年11月発行の人事院月賦第81号巻頭論評には、「日本官僚制の研究」「公務員制の研究」等を著わし、東大法学部で行政学の教鞭を執り、長らく日本の行政学を牽引してきた辻清明が「”人事行政の本旨”とはなにか」を寄せている。
 
 ”人事行政の本旨”とはなにか

 制度の改定にあたつて

 およそ、制度はそれ自体が目的ではない。いかなる制度といえども、すべて、一定の政策を、もっとも効果的に実現するための手段であり、枠組である。したがつて、ひとたびでき上つた制度であつても、これを永久に改めてはならないというものではない。必要が生ずれば、制度自体は、常に改変のメスを加えられる運命にある。いわば、制度は、運行を容易ならしめる軌道の意味をもつているといつてよい。
 けれども、もし軌道が、無目的に、あるいは不断に変更をうけているならば、おそらく輸送の混乱を生じるであろうごとくに、制度も、ひとたび定着した以上、変改の目的があいまいなままに、もしくはその充分な体験を経ることなく、徒らに「制度いじり」の運命に逢うならば、国政の方向は、徒らに動揺する懼れを招くであろう。「朝令暮改」という言葉があるが、そうした非難をうけないためには、制度を改定する場合に、その制度が奉仕する目的と意義に対する充分な認識が、あらかじめ、とくに必要となる。なぜなら、制度のより良き効果を狙つた改定が、あたかも、角を矯めて牛を殺す結果になることは屡々見られるところだからである。最近問題になつている公務員制度の改定についても、やはり、同様のことが妥当する。永い間、わが国では、官吏制度は、大権事項とされ、官吏は天皇の官吏と自他ともに看做していたところから、人事行政ないし公務員制度の意味を学者も政治家も行政官も、それほど厳密に検討していない憾みがあつた。したがつて、このような雰囲気のなかで、制度に対する完全な理解なしに、その改廃を論じ、かつ実行することは、砂上に軌道を敷く棄権をもたらさないとも限らない。そこで、改定の声が高まつてくるのを機会に、「人事行政の本旨」をしばらく、考えてみたいとおもう。


 人事行政は基盤行政である

 まず第一に、私は、人事行政が通常考えられているのと異なつて、特殊な内容をもつ行政であることに注意を促したいとおもう。すなわち、人事行政は農林行政とか商工行政といつた職能別の行政と異なるのはもとより、予算や企画に関する行政以上の意味をもつている。なぜなら、いわゆる一般行政は、公務の運営を意味するのであるが人事行政は、この公務を運営してゆく「基盤行政」であり、その適正なる配置が乱れれば、たとえいかに卓抜なる企画であれ、あるいはどれほど豊かな経費や資財が用意されていようとも、その行政は失敗に終るほかないからである。かりに、これが逆の場合だつたらどうであるか。企画も拙く、資金も乏しくとも、運営に適格なる人事の配列がえられたならば、その結果は最善といえないまでも、おそらく失敗の烙印を押されることはあるまい。その意味において、人事行政は、他の行政とは、まつたく範疇を異にする行政なのであつて、ヘルマン・ファイナーが、「人事の問題は、行政の核心である」(the question of personnel……,that is the heart of the administration)と述べた意味も、この点にあると考えてよかろう。
 人事行政は、一切の行政の土台である。したがつて、その地位も、当然その価値にふさわしい場を占めなければならない。第二次大戦後に、アメリカのすべての政府機構にわたつて、その合理的再編成をおこなうように勧告した「フーバー報告」が、各官省の内部において、人事主任官に、最高の管理的地位をあたえるように要求しているのも、もつともである。わが国の各省や地方団体で、人事行政の合理的運営をおこなうものが、次官または副知事・助役に匹敵する地位を占めるようになれば、人事の異動に際して、二、三の幹部が鳩首協議をこらすという不明朗で部内の士気を沈滞せしめるような光景もしだい跡を絶つようになるであろうし、地方首長の選挙のたびごとに、選挙後に来るべき地位の異動に一様の不安を感ずるひとたちの気持の動揺も薄らいでゆくであろう。
 人事院や地方の人事委員会、公平委員会から、人事行政に関する大幅の分権化を要求する場合には、これらの各省や地方関係当局は、当然、引きうけた人事行政に、それに適当なる高い処遇をおこなう覚悟だけはしておいてもらいたいものである。なぜなら、いかなる行政組織も、それは公務員相互の人間関係にほかならず、もしこの体系が、人事の適格性を喪つたならば、能率の低下や費用の濫費はもとより、そこに特権官僚が生じ、官庁の割拠性がはびこり、さらには利権に身を売つたり、政党によるスポイルス(猟官)がばつこする結果となるからである。これらの弊害を予防して、すべての分野における公務の円滑にして公正な運営を確保するところに、人事行政のもつ重大な使命と役割がある。その意味において、人事行政には、他の行政とちがつて高度の統治的性格が含まれていると考えてよい。


 公務員制度は統治的性格をもつている

 さて、人事行政を、このように統治的性格をもつものとして理解するならば、もはや厳密にいつて、人事行政に通常の用語法で慣れている行政という名称を与えることは、必ずしも適当とはいえないようである。むしろ、それならば、人事行政というよりも、公務員制度と名付けたほうが適当であるかもしれない。それは程度の差こそあれ、地方自治の制度、独立の司法権の制度等と同一の次元で考えられる統治的性格をもつものと見たようがよい。
 地方自治の制度や司法権の独立が、今日、暴政や特権の政治を防止するための統治的意義をもつていることは、近代国家の発足以来の長い歴史的事実に照らして、すでに人々の承認しているところである。地方自治が、やがて国家の民主的基礎を強化する条件であり、司法権の独立が、人権を擁護するための必須の前提となつている事実は、もはや自明のこととさえいつてよい。にもかかわらず、公務員制度について、その統治的性格の自覚が人々の間で十分なされていなかつたのは、民sy性の発達した国では、社会における行政の比重が軽く、猟官制の慣習からも判るとおり、公務員に大きい期待を抱いていなかつたためであり、他方、官僚制の支配していた国においては、公務員は、むしろ君主の大権のなかに没入して、客観的な公務員制度の存在そのものを検討する余地すらなかつたせいだといつてよかろう。
 いわゆる職能国家ないし行政国家の現象が出現するにともなつて、20世紀以降、公務の対象とする社会分野が拡大しはじめるに及び、社会生活に対する公務の比重は、次第に増加することになつた。こうして公務員制度そのものの統治的性格に対する関心が、否応なく高まらざるをえなくなつたのであるが、その点では、地方自治や司法権の独立に比べて、評価される歴史が短かいため、二者に対するほどの強い理解を世人はもちえなかつたのである。人事行政を単なる行政としてではなく、むしろ統治的性格を内在せしめている公務員制度として評価することは、こんごとくに必要となるであろう。もし、公務員制度を、このように理解することが許されるならば、当然この制度の運営は、わが国のいわゆる憲法第65条や憲法第72条に定めるところの「行政」の観念よりも広汎な意味をもつことになり、そのかぎり行政権に責任を負う内閣総理大臣から独立した地位をもつ人事院が、ここでいう意味の人事行政を所掌したところで、巷間いうような違憲呼ばわりは、かならずしも、正鵠をえたものとはいえない。
(続く)


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