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504. 林敬三=人事院月報第85号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号の巻頭論評は、内務官僚で初代統合幕僚会議議長を務めた林敬三の「「公務」の倫理性」を掲載している。

 「公務」の倫理性

  1
 「政治の範囲は頗る広汎である。従つて一国の政治を行うには、いろいろの設備も必要であり、訓練ももとより必要である。官吏として公務に携わるものを軽蔑するのは一般のならわしであるが、これはいかにも浅薄な考えである。賞賛すべきことをかえつて軽蔑しているからである。工業組織といい、公益事業の監督といい、農業問題といい、犯罪及び衛生問題といい、それらはいずれも専門的な知識を必要とする極めて面倒な問題であつて、党派政治とは全然区別しなければならないものである。しかもこれらの問題は、それを取扱うについて充分な知識を要することはいうまでもない。政府にして充分に責任を尽くさんとするならば、行政上に必要な優秀の分子を多々益々吸収する必要がある。現在の政治問題は、主として社会科学の力を借りなければならないのであるが、それには、どうしてもできるだけ公平無私の判断が必要である。」と米国最高裁判所判事フエリツクス・フランクフルター氏は述べている。われわれは謙虚な気持ちをもつてこの言葉を読み、そして自らの励みとしたいものである。選挙によつて選出される議員は、民意の在るところを忠実に反映し、国政が究極において民衆の意志に基づいて行われるようにするための重大な使命を担っている。それは民主政治にはなくてはならぬものであるが、それだけでは近代の民主政治は完全に行われない。それと同時に専門の知識技能と不偏不党の公正さと国家、国民、公共社会に対する一貫した誠実とを持つ大ぜいの公務員たちがあつて、この両者の協力一体の妙が発揮されてこそ、はじめて複雑な進歩した行政を公正な軌道にのせて進めることができるのである。それゆえフランクフルター氏は、行政職務の尊さ、大切さを説くとともに、公務員に、専門知識技能の他公平無私の心構えの必要性を求めているのであろう。
 また、元大審院判事三宅正太郎氏はその著『裁判の書』の巻頭において、「裁判の精神は正義の体現にある。」と述べ、現実にいかなる心構えで裁判をなすべきかの道を豊富な実例をもつて具体的に明らかにされたが、そのことは、多くの司法官の今も深く銘記するところである。
 私は、ここにたまたま二人の司法官の言葉を引用したが、両氏の述べられたところには、ひろく公務員一般に通ずる真理が含まれていると思う。公務員が、公平であり、無私であり、そして誠実を旨とし、正義を体現すべきことは、特に公務そのものの持つ倫理性に基くと考えられるからである。

  2
 憲法は、周知のように「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」(15条2項)と規定しており、国家公務員法は、これを受けて「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務」すべきことを服務の根本基準の一と定める(96条1項)とともに、「公衆に対する争議行為及び怠業的行為」(98条5項)並びに「官職の信用を傷つけ、又は官職全体の不名誉となるような行為」をすることを禁止し(99条)、秘密を守る義務を課し(100条)、政治的行為の制限を定めている(102条)。また刑法は、公務執行妨害罪を設けて公務の執行を担保し(95条-96条の3)、瀆職罪を設けて公務の公正な執行を確保しようとしている(193条-198条)。およそ、すべて正業といわれる限り、いかなる業務も、それぞれの倫理性を持つているのであるが、特にこのような規定を通観すると「公務」は、他の業務に比べて特別に倫理的色彩を帯びており、公務を遂行するにあたつて公務員に要請される倫理とならんで、その根本において、「公務」自体の倫理性があることを物語つている。しかも、元来、法は道徳の最小限度の要請を示したものにすぎないのであるから、「公務」には、法に示されている以上の、高い、また深い倫理性があるものとみてよいであろう。今日、公務員の汚職、職権濫用、公金の浪費その他について国民一般の公務員に対する批判は、まことにきびしいものがある。綱紀の粛正、汚職の追放は、政府の重要施策の一となつており、国民またこれを支持し、期待している。しかし法に規定され、人から求められて他律的に行うことは、すでに倫理の本質に反する。綱紀の粛正といい、汚職の追放といい、公務員がすすんでかかるよこしまなきを期するためには、なによりもまず、みずから「公務」の倫理性について、充分の理解と自覚とをもつようにすることが先決であろう。
 私は省みて公務の倫理性を説く資格のある者ではないが、この問題の重要性にかんがみ先達の言に学びつつ、読者とともに反省し、今後その本質を究めて行く上の緒口として行きたいと希うものである。

  3
 「公務」の倫理性の第一の意義は、「私」に対するもの、いわば「私」の否定としての倫理性であるということができるであらう。「公」は訓読すれば「おおやけ」であるが、『大言海』によれば、「おおやけ」とは、「私(わたくし)ナラヌ、官(おおやけ)ノ意ヨリ移」つた言葉で、すなわち、私なきこと、私ならぬこと、が「公」の本義とされている。「公務」の倫理性も、まずは、そこに見出される。公務員も人間であり、家族もある以上、自己及び家族の幸福を願うことは当然であり、その点他の職業と異なるところはないのであるが、「公務」と私生活とは厳に区別すべきであり、公職に在る者がその地位を利用し、又は公務に名をかりて「私」のすなわち自分一個の利益をはかり、あるいは自己の愛憎の念により公正な処理を欠くがごときことは、言うべくしてその実行はけつして容易なことではない。容易なことではないが故に、それが倫理とされるのであり、不断の反省、修養、鍛錬によつてそれに到達すべきことが要請されるのであり、古来私心を去つて公務に尽くした人の価値がたかく評価されるゆえんであろう。
 三宅正太郎氏が、前述の『裁判の書』に引用されている京都所司代板倉周防守重宗が、公務の判断のうちに「意識しての私意」が入らぬようにすることは、日常精進をおこたらざるにおいては必ずしも不可能ではないが、さらに「意識にのぼらぬ私意」が心のすきに入り込むことなきを期することは、難中の至難事であるとして、毎日、身命をかけて、神に祈つたという事例は、ひとり裁判の精神を示すにとどまらず、すべての「公務」に共通の精神であり、理想を示すものといわなければならぬ。もとより、神に祈るということは必ずしも要素ではないのであつて、要は、真剣に、私心を去るための強い反省と正しい努力をすることが大切とされるところであろう。
(続く)


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