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505. 林敬三=人事院月報第85号(その2) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き、林敬三の「「公務」の倫理性」(人事院月報第85号昭和33年3月号)を掲載する。

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 しかし、「公務」の倫理性は、「私」を否定し、「私」を殺すことばかりにあるのではない。「私」を生かすことに、すなわち国民の最大多数の最大幸福を、場合によつては市井の市民のささやかな幸福をも、実現することを目的とするところに、「公務」の倫理性の第二の意義が認められるものである。東洋古来の政治においても、政道の要ていは、孟子が述べているように民の楽しみを楽しみとし、その実現をはかることに在る、とされていたわけである。まして近代の、民主政治のもとにおいては、国民の自由な活動を尊重し、国家はできるだけこれに干渉せず、消極的に、国民の自由を妨げる行為だけを排除すべきであるとされたレツセ・フエールの時代から、国家が国民のあらゆる生活分野にたち入つて、「生活権」又は「人間に値する生活」を実現するように努めるべきだとされる福祉国家の時代に至るまで、国民の幸福--それは個々の国民についてみれば「私」的なものであるが、最大多数の国民の最大の幸福となると明らかに「公」的な、倫理的なものとなってくる--を保障し、その実現をはかることが、国家なり、政治なりの存立目的そのものと考えられている。「公共の福祉」といい、「国民全体の利益」といわれるものは、まさにこのような種類の利益であり、「公務」は、そのような利益に奉仕し、その実現を目的とするものとして、倫理性を担っているわけである。今日、国家の機能はますます拡大する傾向にあり、「公共の福祉」--「公務」の内容もいよいよ複雑に、量的にも質的にも拡大深化されてきている。したがつて、「公務」の倫理性を維持するためには、「公務」の内容についてのひろい知識と、重畳する各種の価値についてあやまりなくその軽重を判断しうる透徹した識見が要請され、さらにかくて判断したところを実践する不退転の勇気を持つことが不可欠とされている。憲法が「全体」と「一部」とを対置させて、公務員が前者の奉仕者であるべく、断じて後者に奉仕してはならないとしているのは、まさにこのような趣旨と解さなければならない。

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 憲法は、その前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し………その福利は国民がこれを享受する。」といつている。「公務」は、このように、信託されたものとして、信託の精神に反しないように処理されなければならない義務を負うている。信託の精神にそうように処理されなければならないという点、「公務」の第三の意味における倫理性が認められると思われる。信託した国民の期待と信頼を裏切るような公務の処理をすること、国民よりの信託に反して公金を浪費し、権力を濫用し、不公正な処理をすることが非難されるのは、それらの行為がこのような意味においても反倫理性を有するからにほかならぬ。内閣は、国会の不信任によつて退陣するが、そういう法律制度の最小限度の要請をこえて、「公務」は信託の精神に従つて処理されなければならないという倫理的義務を負うているのである。
 「論語」によれば、子貢が政治の要ていをきいたのに対して孔子は、「食を足し、兵を足し、民之を信ず」と答え、やむをえない事情があつて省略するとすれば、第一に兵、すなわち軍備を撤し、第二に食糧を犠牲にすることができるが、民の信頼だけはこれを棄てるわけにいかないとして、「古より皆死あり、民信なくば立たず」と答えたということである。東洋古代の政治機構と現代の民主政治機構とはもとより同様ではなく、「民の信」という場合の民は、国政を信託する地位に在る国民とはいえないが、そのような場合においてさえ「民の信」が政治において最も重んずべきものとされたのであれば、今日の「公務」が国民よりの負託の精神に反してはならないという倫理性を担つていることは、きわめて明白といわねばならないであろう。
 「公務」にたずさわる者にとつて何より大切なものは「信」である。それは、孔子二千五百年の昔より民主政治の現代に至るまで変らない心理であろう。

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 以上、三つの意義における「公務」の倫理性をあとづけてきたのであるが、これらは平面的に並列して考えるべきものでなく、相互に因となり果となつて、渾然一体の関係をなしている。そして、これらをその窮極においてささえるものとして、私は、国家そのものがもつ倫理性を指摘したいと思う。もとより、ここにいう国家は、政治とか制度的意味における国家機構ではない。社会学の始祖と呼ばれるオーギュスト・コントの言葉に「社会は、現在の成員のみから成るものではない」というのがある。自分の意思によつて、どこの国に生まれるかをさえ決めることのできない人間、遙か昔の祖先から遠い将来の子孫をも含めて生成発展する全体としての国家、人為的に作りかえることのできる政府とか精度的意味における国家機構をこえて生きつづける、このような無形の、倫理的団体又は倫理的な人間関係想定することによつてのみ、古来、諸国民が、そして現在においても世界の各国民がそれを守るために生命を賭しても当ろうとすることの倫理性が、肯定されるのではなかろうか。「公務」の倫理性は、窮極において、このような意味における国家のもつ倫理性の反映であり、それに淵源するものであると信ずる。

著者紹介:明治40年生、昭和4年東大法卒、内務省に入り、内務省人事課長、鳥取県知事、内務省地方局長、宮内庁次長等を経て、現在防衛庁統合幕僚会議々長。



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