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512. 鵜飼信成=人事院月報第94号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第94号(1958年12月発行)には、鵜飼信成が巻頭文を寄せている。鵜飼信成の専門は、憲法、行政法。岩波文庫の『市民政府論』は鵜飼の翻訳。

 民主的行政の条件

  はじがき

 戦後日本の行政改革の中心課題が、官僚制の改革におかれるべきであつたことは、明治以来の日本の行政の性格が、ひとえに日本官僚制の性格によつて規定されていたことからいつて当然であつた。
 行政の改革そのものは、行政組織の面にも、行政作用の面にも、多くの問題をもつており、それらのもろもろの面について適正な改革の方向を発見することが重要な課題であることは不定できないけれども、しかし何よりも根本的な問題は、このような組織を現実に動かし、行政の作用を現実に行つていく人々、すなわち官吏が、一般に官僚意識の名で呼ばれるような意識形成の下に、官僚制と呼ばれるような特有の存在をもつていたという事実で、これをいかに改革するかを考えないでは、行政の民主化はありえないといつてもよかつたのである。
 このことは、戦後の日本の新しい方向づけを指摘すべき地位にあつた連合国軍総司令部の明確に意識していたところである。たとえば、総司令部民政局の報告である「日本政治の新しい方向づけ」(Political Reorientation of Japan,September 1945 to September 1948,Report of Government Section,Supreme Commander for the Allied Powers,1948)によると、「占領の始まる前から、西欧の学者だけでなく、日本の学者によつても、日本官僚制が、国民生活の全体主義的規制のための、主要な道具であることが認められていた」のである。けれども、この方式には、一つの困難な問題点ががある。それは、連合国軍の占領管理が、いわゆる間接管理の方式、すなわち日本の既存の官僚機構を通じてのみ、占領統治を行うという方式を、採用することに決したからである。
 ところでもしもこのように、「占領目的を達成するために、既存の日本政府の機構を利用するということに決まると、それは必然的に、次のような冒険を伴なうといわなければならない。その冒険とは、イデオロギー的に、占領政策に反対の官僚が、行政的なサボタージュによつて、占領政策にはそれを遂行するためおのずから展開される日本の政治指導者のプログラムを無にしてしまうことである」(前掲246頁)。そうしておそらくこのようなサボタージュの中で最も根本的なものは、日本官僚制の改革そのものをサボタージュすることでなければならない。もしこのような事情によつて、行政改革が停滞するようなことになれば、一切の行政改革が、その目的を達しえないことになるであろう。
 科学的人事管理という近代的な原理を、日本の人事行政にとり入れるということがら自体が戦後日本の当面した社会的政治的諸条件の中で、決して単純自明なことでないばかりでなく、その実現の方式がきわめて困難な状況の下におかれていたことが、これでよくわかるのである。
 以下、国家公務員法の制定過程の分析を通じて、この点がどのように展開されたかを具体的に明らかにしてみることにしよう。

  国家公務員法の制定

 国家公務員法の制定が、連合国総司令部占領政策の重要な焦点をなすものであつたことは、上に述べたとおりであるが、それが科学的人事行政の方向を目指すものとすれば、当然そこに人事委員会制度の設置が要求されることは、明らかでなければならない。このことを明確に洞察したものは、昭和22年のはじめに、当時の行政調査部公務員部長、現在の人事院総裁浅井清博士が「ニッポンタイムズ」に公表した一文であつた。
 アメリカ公務員制度顧問団のフーバー氏は、当初からその方向であつたものと想像される。昭和22年6月11日、フーバー顧問団が片山内閣総理大臣に国家公務員法の草案を提示したとき、その内容として示されたものが5点あるが、その第四に「民主的諸国家の近代的人事委員会の長所をとり、さらに進展させた、全国的中央人事行政機関を確立し、その組織・職務・権限・財政・設備につき規定し、またこの機関の永続性を規定した」と述べられている。表現自体はきわめて控え目であるが、そこに公務員制度改革の眼目があつたことは、この人事委委員会制度をめぐつての攻防が、その後の国家公務員法制定の過程における焦点の大きな一点をなしていたことに示されている。
 政府は、同年8月30日の第1国会に、このフーバー案に基づく国家公務員法案を提出したが、その中で、フーバー案はかなりの程度まで修正をうけていた。修正された点は種々あるが、とくに興味をひくのは、上に述べたフーバー構想に基づく人事院の地位が、かなり弱められたことである。すなわち、その権限の特色をなしていた(a)独立の規則制定権は、内閣総理大臣の承認を経て制定することに改められ、(b)その決定処分は、裁判所による審査を受けない、という規定は削除され、(c)その予算は、自ら作成し、原則として内閣によつて修正されない、という規定も削除された。
 ではいったいフーバー案は、何故に、このような修正をこうむつたのであろうか。いいかえれば、法案作成の任に当つた日本政府は、何故に、人事院の地位を弱めるような修正を加えたのであろうか。その理由を明らかにすることは、かならすしも容易ではない。けれども」上に挙げた総司令部報告書の述べているような考察の入る余地が十分にあることは否定できないであろう。
 そしてもしそれが正しいとすれば、人事院の地位を弱めることによつて、人事行政の改革が効果的に行われることを阻止しようとする意思が、明示的にか、暗黙のうちにか、そこに示されていることは見逃すことのできない事実である。
 しかしこの場合、政府の示した方向と、外見的に同じ方向をとろうとする論者が、別の方面にいたことを忘れてはならない。それは民間の公務員制度改革論者である。これらの改革論者(たとえば公法研究会。その意見は当時「法律時報」および東大の「大学新聞」に発表された)は、これとは全く違つた立場から、全く違つた意図をもつて、政府の国家公務員法案を批判した。そうしてその批判は、その背後にあるフーバー構想にも及び、人事院の地位に関する法案の規定に対しても、フーバー案に対しても、同じ批判を加えたのである。批判の結論は、人事院の地位権限を、政府案におけるよりもさらに一層弱体化しようということであつた。
 では、これら民間の批判者たちの、批判の意図と根拠とは、いつたいどこにあつたのであろうか。
(続く)


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