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514. 文官任用制度の歴史 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第95号(昭和34年1月発行)及び第96号(同年2月発行)には、「文官任用制度の歴史Ⅰ・Ⅱ」が掲載されている。執筆者は、任用局企画課の和田善一。

 まず、Ⅰの冒頭で記述の意図を述べる。

 まえがき:明治時代から昭和にかけて旧官吏制度のもとでは、文官の任用の基本をなす法規として長く文官任用令が施行されており、その前後にそれぞれ文官試験試補及見習規則と文官任用叙級令が施行された時代があつた。本稿ではこれらの法規の制定改廃の事情を国家公務員法施行前まで追つてみたいと思う。任用令の制定やその大きな改正が行われた場合には、それを促した社会的背景が常に法規の背後に存在している。また、いつたん制度の改変が企てられていながら種々の事情によつて所期の目的どおりに実現しないこともあつた。これらの点を含めて簡単に述べてみるつもりである。(第95号10頁)

 まえがきに続いて「1 文官任用制度の創設」について述べる。

(1) 規則制定前の情実任用
 明治18年12月22日太政官制度にかわつて内閣制度が成立したが、4日後の12月26日初代の内閣総理大臣伊藤博文は「各省事務ヲ整理スルノ綱領」を各省大臣に示達した。この綱領の中で試験による官吏任用の制度を樹立する必要が宣言されている。これがわが国で官吏の任用制度の創設を公に日程にのせたそもそもの始めであつた。(同頁)

 情実任用の弊害については、一つには、明治維新で指導的役割を果たした薩長2藩の出身者やこれらの勢力とつながる者が政府の要職に任用される比重が圧倒的となっていたこと。もう一つは、反政府的な自由民権運動の切り崩しのため、その指導的分子に官職を与えることもかなり行われたことが紹介されている。
 そして、「情実任用の勢を助けたのは、任用に対する法的規制が存在しなかつたことのほかに、官の定員の制度が設けられていなかつたこともまた一因であつた」と説明する。
 当時の乱れた状況を谷干城の意見書を引用することで紹介している。

 時の農商務大臣谷干城は明治20年に内閣に提出した意見書の中でその点を痛烈な口調で次のように述べている。
 「而ルニ其ノ後(注、各省官制制定後のこと。)僅々一年ナラザルニ漸ク破壊シ百度皆改革以前ニ復帰スルノ実ヲ呈シ、………蓋シ其ノ因テ来ル処ヲ推究スレハ情実ノ牽連ヨリスルノ弊害ニ非サルハナシ、………蓋シ方今行政ノ状タル必要ノ事業アルカ為ニ官ヲ設ケ官ヲ設ケタルカ為ニ人ヲ用フルニアラス、却テ人ノ為ニ官ヲ設ケ官ノ為ニ事業ヲ設クルノ風アリ。大本ヲ転倒スル亦甚シト云フヘシ。之ノ故ニ有効者ヲ賞スルニ官ヲ以テシ、旧友ヲ憐ムニ官ヲ以テシ、私徳ニ報スルニ官ヲ以テシ、朋党ヲ造ルニ官ヲ以テシ、遊楽ヲ求ムルニ官ヲ以テシ、甚キニ至テハ在野有志ノ口ヲ○制(けんせい)スルニ亦官ヲ以テスルモノアリ。而シテ無用ノ官吏終日不要不急ノ事務ニ従事シ、徒ラニ繁雑ノ弊ヲ増シ、却テ要務ヲ遅滞スルコト月ニ愈甚シ。(同号11頁)

かくして遂に明治20年7月23日、文官試験試補及見習規則(勅37)が公布され、翌年1月から施行されることとなった。
 当初の高等試験と帝国大学卒業生の無試験任用などの説明が述べられた後、次のようにまとめている。

 以上のようにしてわが国最初の官吏の任用制度は、勅任の行政官(当時は次官および局長の一部等)の任用が自由である点を除いては、一応の形を整えた。このようにして任用された行政官は、当時の政府の考え方によれば、政党の勢力から絶縁して、人民が向う方向を誤らないように指導し統治すべきものとされたのである。すなわち、憲法発布の翌日内閣総理大臣黒田清隆は地方長官集会席上において「………憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非ざるは勿論なり。唯だ施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投じて団結をなし所謂政党なる者の社会に存立するは亦情勢の免れざる所なり。然れども政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざるべからず。各員宜しく意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭宜しきを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むべきなり。………」と演説し、また、黒田の次の総理大臣山県有朋も明治22年12月25日各府県知事への訓示中で「………今茲に最も注意を要する所の者は此時に当り各位は宜しく屹然として中流の砥柱(しちゆう)たるべきのみならず、亦宜しく人民のために適当の標準を示し、其偏頗を抑へ向う所を謬らざらしむることを勉めざるべからず。要するに行政権は至尊の大権bなり、其執行の任に当る者は宜しく各種政党の外に立ち引援附比の習を去り、専ら公正の方向を取り以て職任の重に対うべきなり。………」と述べている。現在は公務員が国民全体の奉仕者となるために、その政治的中立が要求されるのに対し、当時のそれは全く異つた考え方の上に立つものであつた。(同号13頁)

 この後、「Ⅱ 任用制度の再編成」と題して、文官試験試補及見習規則に代わって文官任用令が制定されるに至った背景には、帝国議会における政府と野党との激烈な抗争があり、天皇の詔勅により定員3,272人、俸給庁費その他の行政費節減170万円に及ぶ行政整理が行われたことがあったことが紹介されていく。

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