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515. 文官任用制度の歴史Ⅱ [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き「文官任用制度」を取り上げる。今回は人事院月報第96号(1959年2月発行)から書き留めたい部分を中心に抜粋したい。

Ⅲ 勅任文官の任用の規制

(1) 憲政党の猟官
 文官試験試補及見習規則から文官任用令へと任用法体系は整備されたが、いずれも奏任文官、判任文官についての規定であつて、勅任文官は自由任用にまかされていた。勅任文官の任用資格要件が定められたのは、政党による猟官を経験した後だつたのである。
 すでに見たとおり文官任用令制定当時においては、議会で議席の過半数を制する野党諸派と政府との間に激しい抗争が繰り返されていたのであつたが、明治27年7月に日清戦争が開始された後は政治的休戦が行われた。野党は戦争遂行に全面的に協力する態度をとつたのである。戦後経営についても当時の第2次伊藤内閣は自由党(板垣退助等を中心とする。)と提携し、次の松方内閣も進歩党(大隈重信等を中心とする。)と妥協提携した。政党人の猟官はこのような機会に開始されたのである。松方内閣には進歩党党首大隈重信が外務大臣として入閣し一時農商務大臣をも兼ねたので、党員は各省の勅任参事官や農商務省の局長等として配置された。
 松方内閣の次の第3次伊藤内閣の時代に自由党と進歩党とは合同して憲政党を結成した。これを契機に伊藤内閣は総辞職し、憲政党によつてわが国最初の純然たる政党内閣が組織された。維持31年6月30日のことである。閣僚は陸相、海相以外は全部党員で、首相大隈重信以下旧進歩党派が4人、旧自由党派が3人であつた。
 内閣書記官長、法制局長官はもちろん党員であり、各省次官のすべておよび警視総監にも党員が任命された。さらに各省局長や地方長官等にも多くの党員が任命されたのであつた。
 この内閣の寿命はわずか4ヶ月余りであつたが、内閣成立のはじめは世人はこれに大いに期待した。政党が多年主張するところの藩閥政治の積弊の一掃とこれに伴う行政機構の整理刷新がどこまで実現するのかを注目したのである。
 政府もこの要望に沿つて臨時政務調査局を設置し、行政整理の調査に着手させた。憲政党自身もこれと併行して政務を調査し、政府の臨時政務調査局よりも一足先きに結論を示した。これはきわめて急進的なものであつた。
 すなわち、任用制度に関しては、現在の勅任官、奏任官を全員解任して新たに任命しなおすこと、文官任用令を改正して無試験任用の範囲を拡張すること等を主張した。その他行政整理等については、文部省、司法省、警視庁の廃止、控訴院の減少、勅任参事官の全廃、郡長の公選、市町村長の権限拡張、県の統廃合等を目指すものであつた。(注1)
 このような党員の要求は、ようやく誕生したばかりでその基礎もまだ弱い政党内閣にとつては、大部分が実現不可能の事柄であり、政府首脳は党員と従来の強大な政治勢力との間で板挟みとなつたのであつた。結局政府のなしえたことは、明治31年10月22日公布の一連の勅令により官制改正で、官吏の定員を減ずること4,522名、人件費を節約すること約74万円に過ぎなかつた。(注2)
 この行政整理の発表から数日の後に憲政党内の旧自由党派と旧進歩党派との反目が表面化し、党は分裂した。前者が憲政党を名乗り、後者は憲政本党と」なつたのである。かくして大隈内閣は崩壊し、いわゆる藩閥の巨頭山県有朋を首班とし、閣員もまたすべて藩閥出身者をもつてあてた第2次山県内閣に政権が移った
各省次官等の勅任の官職を占めていた政党員もすべてその地位を去つたのはいうまでもない。
 (注1)朝日新聞社編「明治大正史」第6巻190頁参照
 (注2)大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻816頁参照 (第96号10頁)


 この後、山県は極秘のうちに文官任用令を改正するのである。

 政府は制度改正の理由を公表した。その中で述べたことは、行政官は本来武官のように下級から順次上級に累進すべきであるのに、奏任官の資格のない者を直ちに勅任官に任用するのは官紀荒廃の原因であること。また、法令がすでに詳細になつており、行政は専門技術の域に達しているから、自由任用を排して専門の学識ある者を任用する必要のあること、このように厳格な任用を行つても免官に対する保護を与えなければ官吏の忠実公正を期待できないこと等であつた。(注)
 (注)工藤武重「改訂明治憲政史」594頁以下参照 (同号11頁)

 したがつて、政党側としては任用制度を旧態にかえそうとするには、将来政権を握つた際に勅令を改正するよりないわけである。事実憲政党幹部星亨は、「乃公共は任用令や分限令を左程意に掛けない。どうせ山県との提携は何時までも続くものではなく、次の議会に於ていよいよ政党の手に政府を引受くる場合にはあんな勅令の一通や二通はなんでもない……」(注)と豪語したのであつた。
 政府側においてもこのことを憂慮し、これを防ぐ手段としてとつたのが任用令等の改正を枢密院の諮詢事項とすることであつた。任用令改正の翌33年山県首相は極秘のうちに上奏し、同年4月9日これらのことを諮詢事項とする旨の「御沙汰書」の下付を受けたのである。
 すなわち、枢密院官制及事務規程(明21,勅22)の第6条には枢密院諮詢事項が列挙されているが、その第6号「前諸項ニ掲クルモノノ外臨時ニ諮詢セラレタル事項」として、以後は文官の任用、分限、懲戒、試験等に関する勅令の制定改廃は必ず枢密院の審議に付すべきである、というのが御沙汰書の内容であつた。
 枢密院は帝国憲法草案の審議機関にあてることを主たる目的として明治21年に設置されたのであるが、憲法発布後はその第56条で「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と憲法上の必要機関とされた。議長1人および顧問官二十数名(いずれも親任官)からなる合議体として運営された。内閣総理大臣および国務大臣も会議に出席して表決する権利をもつていたが、顧問官に対応しようとしてもその人数は常に少数派である。したがつて、政府の重要な政策は常に枢密院によつて制約されざるをえず、政党内閣が出現した場合はことにこのことが甚だしかつたのである。顧問官へは「元勲」および「練達ノ人」が任命されるのであり、超然主義的な傾向になじんでいた。このことは、山県有朋が明治38年以後大正11年の彼の死に至るまで、明治42年中に一時伊藤博文に代つたほかはずつと議長の席を占めていたことからもその一端をうかがえるであろう。かくして枢密院は以後任用令等に対する関係においては、政党勢力の行政内部への進出に有利な条件を与えるような改正に常に極力反対したのであつた。
 (注)日本国政事典刊行会編「日本国政事典」第3巻264頁参照 (同号11、12頁)

 大正時代においては、原内閣の時から後は、任用制度はたいした変化を受けることがなかつた。任用制度の改正は、原内閣の時の試みですでに限界に達したのである。しかしながら、この時代は政友会と憲政会の二大政党そのほかの政党勢力が与党野党を問わずに進出して、政争は津々浦々の市町村にまで及んだ。行政内部にも政党的色彩が浸透し、ことに地方長官は任用資格を要する官であるにもかかわらず、実質的には政党の支部長と異ならない観を呈するに至つたという。
 このことから、閉鎖的な任用法規によつて任用されたいわゆる有資格者の内部に、党派的迎合と対立とが生じたことが推察される。しかしこのような状態になつても、勅任、奏任、判任、雇傭人の厳然たる身分的差別を基礎として、天皇の任免大権の下に服属する官吏制度が変化させられたわけではなく、そのままの形で政党に利用されたに過ぎないのであつた。したがつて、対内部的には忠実無定量の服従、対外部的には天皇主権の行使者としての官吏のあり方が、政党勢力の進出によつて格別に民主化されるということもなかつたのである。
 なお、大正13年8月、加藤内閣の時に各省次官と勅任参事官とを自由任用の範囲から落し、代りに設けた政務次官と参与官とをこれに加えた。政府は政務次官と参与官とを衆議院議員の中から任命し、以後の政府もこれにならつた。貴族院議員が数名これに加わることもあつた。(同号15頁)


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