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523. 特殊勤務手当改正の要点 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第105号(昭和34年11月1日発行)に「特殊勤務手当改正の要点」が収録されている。

 昭和34年10月5日に政府職員の特殊勤務手当に関する政令の一部を改正する政令(昭和34年政令第317号)が公布され、あわせて昭和34年人事院指令9-218(昭和28年人事院指令9-72(政府職員の特殊勤務手当の支給について)が発出され、政府職員の特殊勤務手当の一部が改正された。おもな改正点は、大学院研究科担当手当、多学年学級担当手当、海員学校実習授業手当、航空交通管制手当、駐留軍関係業務手当および死体処理作業手当の新設、危険作業手当の支給範囲の拡大ならびに隔遠地所在官署に勤務する職員の特殊勤務手当の手当額の改定である。(22頁)

 多学年学級担当手当をはじめ、教員関係の手当新設などが多い感じがする。早速、一部を抜粋してみたい。

   多学年学級担当手当
 2以上の学年の児童または生徒で編制する学級(以下「多学年学級」という)における授業等を行なつている国立の小学校または中学校の教諭、助教諭または講師(以下「国の教員」という)は、1学年の児童または生徒で編制する学級で従業等を行なつている国の教員に比較して、勤労の度が強く、精神的肉体的労苦も大きい。一方、地方公務員たる教員には、単級小学校、複式学級手当等の名称をもつた給与措置がとられており、以上の諸点を勘案して、国の教員にも、手当が支給できるよう制度化した。
1 手当の内容
(1) 対象作業:多学年学級における授業または指導(政令第52条)
(2) 対象職員:国立の小学校または中学校に勤務する教諭、助教諭および講師。ただし次の者は除かれる。(政令第52条、指令第6項)
(イ) 俸給の調整額を受ける者
(ロ) 多学年学級における担当授業時間数/担当授業時間数<1/2の者
(ハ) 多学年学級における担当授業時間数が1週間につき12時間に満たない者
2 手当額
 勤務1日につき次に掲げる額(政令第53条、指令第7項)
(イ) 小学校の第1学年から第6学年までの児童または中学校の第1学年から第3学年までの生徒で編制されている学級における授業または指導に従事したとき 48円
(ロ) 多学年学級のうち前号に掲げる学級以外の学級における授業または指導に従事したとき 36円
3 実施期日
 昭和34年9月1日から適用(政令附則第2項)

 そうか! 多学年学級担当手当は、地方が先行していたのか!



 次に出てくる海員学校実習授業手当は、運輸省海員学校において船舶に関する科目の実習授業または実習を伴う授業を担当している教員を対象とする特殊勤務手当として新設されたようである。説明を読み進めると、「また文部省所管の産業教育手当を支給されている学校との関係もあつて、優秀な教員の確保に支障をきたしているので、手当が支給できるよう制度化した。」とある。なあるほど…。手当額は、授業1時間につき25円。

 また、隔遠地手当についても記述があり、へき地手当との関係が述べられている。

 隔遠地に勤務する職員の困難性を考慮し、あわせて教職員のへき地手当との均衡をはかるため、隔遠地手当の支給割合の最高限度を引き上げるとともに、手当額の算出の基礎に扶養手当の月額を加えることとした。
1 手当額
 隔遠地手当の月額は、俸給の月額と扶養手当の月額との合計額の100分の25以内(政令第95条)
2 実施時期
 昭和34年4月1日から適用(政令附則第2項)


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522. 6・3ベースと年末年始の休日の攻防 [49.「人事院月報」拾い読み]

 新型コロナウイルスの猛威がやまない。それどころか、感染者はますます増加する中で2021年を迎えた。今、人類はコロナ禍に耐えている。きっとコロナ禍を乗り越え、楽しく明るい世界がやってくることを信じたい。

 さて、今回は人事院月報第100号(昭和34年6月1日発行)の座談会「人事院の思い出あれこれ」から、給与制度にかかわる話題を取り上げたい。座談会の出席者は、佐藤朝生前人事院事務総長(現在=当時、総理府総務副長官)、粕谷孝夫元人事院広報局長(現在=当時、ウルグアイ国駐さつ特命全権公使)、兼子宙元人事院能率局長(現在=当時、早稲田大学教授)、慶徳庄意前人事院管理局長(現在=当時、酪農振興基金常任幹事)の4人である。

   6・3ベースの勧告

 佐藤 6,307円の給与ベースの勧告をしたのは23年の11月9日でしたね。それをまた12月にやつたんですね。
 兼子 始めは臨時人事委員会のとき出して、次に公務員法の改正によつて、人事院として再び勧告したわけです。
 佐藤 そうでしたね。12月のなかばに給与法が国会を通過しその直後に国会を解散した。内容はどうでしたかね。8月に行つた第1回職種別民間給与調査に基づいてやつたんですね。
 粕谷 司令部のほうで計算してきたのかな。(笑)
 慶徳 この勧告の内容について非常に重大な点といいますと、今でこそ、給与水準の決定の方式が、民間賃金とのバランス、最低生活の保障とか、一般に理解されていますが、そのような考え方を始めて導入したということですね。
 兼子 マーケット・バスケット。マ・バ方式というやつだ。
 慶徳 買物袋。(笑)また、それまでは、観念的には考えられていたけれども、公務員の給与が、正規の勤務時間に対する勤労の代価であるという考え方も、あのときに始めて導入されたと思います。さらに、給与関係業務の合理化というような点から、給与の総体的な調整をはかるところを人事院としました。したがつて、人事院規則を制定しうることとなり、給与関係が二元的になつた。人事院と新給与実施本部と。
 佐藤 そうですね。内容はだんだん合理化してきているけれども、方式なり考え方の根本は、そういつた歴史をたどつていますね。
 慶徳 この勧告にからんで、実施面のことについてふれますと、特殊勤務手当や超過勤務手当やいろいろ問題にはなりましたが、とくに大蔵省と折衝して、いまだに思い出として残つておりますのは、年末年始の休暇は法律違反だといわれたことです。
 佐藤 あつた。あつた。
 慶徳 それは国民の祝日に関する法律が出ましたのでそれ以外のものは認められない、とこうきたんです。ところが、こちらでは太政官達でもつて、古いけれども有効なんだということでした。毎日むこうさんから呼ばれて、すつたもんだやつて結局ほおかぶりしてしまつたわけです。
 そういつたいきさつがあつて、あれは正規の勤務時間の中にはいつているのです。そのために、あの日に出勤しても、休日給は出ないということになつております。(11頁~12頁)

 この6・3ベースについて、『公務員給与法精義(全訂版)』(学陽書房)の記述を確認しておこう。

 1 六、三〇七円ベースの実施と俸給の再計算
 新給与実施法による一五級制の発足後間もない昭和二十三年六月に、その後の情勢の変化によりいわゆる三、七九一円ベースが実施されたが、これは俸給の水準の一律三割増と扶養手当の増額を内容とするものであり、制度的には別段の変更を加えるものではなかった。また、次いで同年十二月、人事院の第一回の給与勧告に基づく六、三〇七円ベースが行われることとなり、同年法律第二百六十五号により必要な改正が加えられたが、この改正も同ベースの実施のための改正が主体とされ、付随的には国家公務員法との関係等を考慮しての規定の改正、整備を図る趣旨のものであった。
 ところが注目すべきは、右の六、三〇七円ベースの実施と関係して、「俸給の再計算」ということが行われたことである。すなわち前述の十五級制の発足に伴う新俸給への切替えの措置がやや拙速的であったとこや、当時における労働情勢等とも関係して、各省庁の中には当該切替えおよびその後の昇給、昇格等の取扱いにおいて、公認された取扱い以上の取扱いを行った例がかなり存していた。このため六、三〇七円ベースによる新俸給額への切替えに当たってこのような不当な措置をいっさい排除させるとの方針がとられることとなり、職員の昭和二十三年十二月一日現在の俸給月額については、「改正前のこの法律並びにこれに基づく政令及び規則の規定に従い再計算せらるべきものとする。」こととされたわけである。そしてこの措置は、当時かなり話題をにぎわし、かつ、相当な波紋を残したが、それはそれとして、とかく混乱を伴いがちであった新俸給制度への移行も、これによって実質面からの再点検を終えたかたちとなり、ようやく新制度も軌道にのることとなった。

 2 人事院の関与と新給与実施本部の廃止
 新給与実施法による給与制度の実施を最初につかさどっていたのは、新給与実施本部である。この新給与実施本部は、同法の完全な実施を確保するための期間として同法の規定により設けられ、本部長は内閣官房長官、次長は大蔵省給与局長、部員は各省庁の給与事務担当者をもって充てられていた。ところが昭和二十三年十二月に人事院が設けられることとなり、さらに昭和二十四年十二月には給与行政一元化の趣旨から新給与実施本部は廃止されて、同本部の業務は全面的に人事院に吸収統合された。(46頁~47頁)

 続いて、「休日給」の沿革について引用しておきたい。

〔趣旨および沿革〕
(略)
 本条は、昭和六十年法律第九十七号による給与法の一部改正によって、第十四条の二として新たに職員の休日に関する規定が設けられたことに伴い、所要の改正が行われたものであるが、この改正前の本条の規定は次のとおりであった。
〇旧第十七条
(休日給)
第十七条 職員には、正規の勤務日が休日に当たつても、正規の給与を支給する。
2 休日において、正規の勤務時間中に勤務することを命ぜられた職員には、正規の勤務時間中に勤務した全時間に対して、勤務一時間につき、第十九条に規定する勤務一時間当たりの給与額の百分の百二十五を休日給として支給する。年末年始等で人事院規則で定める日において勤務した職員についても、同様とする。
3 前二項において「休日」とは、国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)に規定する休日(第十四条第四項又は第五項の規定に基づき日曜日以外の日を勤務を要しない日と定められている職員にあつては、当該休日が勤務を要しない日に当たるときは、人事院規則で定める日)をいう。
 すなわち、前章でも述べたように、昭和二十四年一月一日前においては、給与上の取扱いとして国民の祝日と日曜日(週休日)とはともに休日として取り扱われ、したがって旧大十七条に相当する規定も存していなかった。ところが、昭和二十三年法律第二百六十五号による新給与実施法の一部改正によって、新たに職員の勤務時間に関する規定が整備されるに及んで、「勤務を要する日」、「勤務を要しない日」の区別が確立され、国民の祝日(休日)は勤務を要する日ではあるが休日とされるかたちのものとなったので、これとの関係で旧第十七条に相当する規定が設けられ、以後それが給与法に引き継がれてきたものである。つまり旧第十七条は、国民の祝日に関する法律に規定する休日が、職員の勤務時間に関する規定(給与法第十四条)上は、原則として勤務を要する日とされることとの関係において位置づけられてきたものであるが、前述の昭和六十年法律第九十七号による給与法の一部改正によって、国民の祝日に関する法律に規定する休日に加え、従来のいわゆる年末年始の休暇日についても、新たに給与法上において休日として位置づけ、ともに「特に勤務することを命ぜられている職員を除き、正規の勤務時間においても勤務を要しない」(第十四条の二)こととされたことに伴い、これに対応して現行の本条のように改正され、さらにあわせて必要な規定の整備が行われたものである。
 なお、旧第十七条第一項は、国民の祝日に関する法律に規定する休日に関していわゆるノーワーク・ノーペイの原則の特例を定めていた規定で、休日の特殊性に着目し給与法第十五条に規定する給与の減額の適用を排除していたものであったが、昭和六十年法律第九十七号による改正に際して、給与法第十五条に移し替えが行われている。
 また、旧第十七条第二項は、第一項との均衡において休日に特別に勤務した職員に対する割増給与の支給について定めているとともに、休日に準ずる日としての年末年始等で人事院規則で定める日に勤務した職員に対して、同様の取扱いとする旨を定めていた規定である。そしてこれらの規定中、第一項の規定と第二項前段の規定とは旧第十七条の制定当初より設けられていたのであるが、第二項後段の規定は昭和三十九年法律第百七十四号による給与法の一部改正によって追加された規定である。すなわち第二項後段にいう「年末年始等で人事院規則で定める日」とは、具体的には主として年末年始の休暇日等を指すが、従前はこのような日に勤務した職員に対しては、それがたまたま休暇が与えられないことの結果としての勤務にすぎないとして、第二項に規定する割増給与の支給ということは行われていなかった。しかしながら、休日と休暇日という形式上の差はあるにしても、大部分の職員に休暇が与えられ、実態として休日と大差のないこれらの日に特別に勤務する職員に愛して、なんらかの給与上の措置も行われないことは均衡上問題があり、その合理的解決を希望する意見が少なくなかった。ことに近年における社会生活の変化とも関係して、年末年始等に特別に勤務することが職員にとって一種の負担感を負わせるようになってからはそうであり、このために人事院の昭和三十九年の給与勧告においてこの点を改善すべき旨が取り上げられ、結果として同年の給与法の改正の際に、第二項後段の規定が設けられるに至ったという経緯が存している。(496頁~499頁)

 『公務員給与法精義』には、年末年始の休日を巡る人事院と大蔵省との攻防の記述はない。


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518. 退職年金制度改正と退職手当 [49.「人事院月報」拾い読み]

 昭和34年6月1日発行の人事院月報は、記念すべき第100号である。本号には、記念論文集や座談会も掲載されており、それはそれで面白いのだが、今回は「公務員退職年金制度改正の概要」の記事に注目したい。

 第31国会で成立し、5月15日公布された国家公務員共済組合法等の一部を改正する法律(昭和34年法律第163号)により、明治17年太政官達第1号「官吏恩給令」に始まる文官の恩給制度は終りを告げ、新たに共済組合制度による公務員年金制度がきたる10月1日から全面的に発足することとなつた。
 ここまでに至る経緯を簡単にふり返つてみると、周知のごとく昭和28年11月17日に人事院は国家公務員法の規定に基づいて、官吏雇傭人を統一する国家管掌による公務員年金制度を内容とする研究成果を国会および内閣に提出しあわせてそれが法律として制定されるよう意見の申出を行つている。これを契機として、昭和31年7月1日から公共企業体職員についてほぼこれと水準を同じくする年金制度が共済制度によつて始められることとなり、郵政職員についても同様の動きが議員提出法案としてあらわれ、審議未了とはなつたが、政府としても早急の措置が必要となつた。しかし公務員年金制度を共済制度とするか国家管掌制度とするかについて政府部内の意見が一致せず、昭和33年3月14日閣議において、五現業職員については共済制度によることとし、非現業雇傭人はこれと調整をはかる意味で暫定的に共済制度により、非現業恩給公務員については別途至急検討するものと裁断された。かくして、国家公務員共済組合法(昭和33年法律第128号)により、昭和34年1月1日から非現業恩給公務員を除く国家公務員に新制度が適用されることとなつたが、その後残された非現業恩給公務員についても国家公務員法に基づく退職年金制度としての共済制度によることに政府部内の意見の一致をみ、国家公務員法の改正とともに今回の改正となつたものである。国家公務員法の改正においては、相当年限忠実に勤務して退職した公務員に退職年金が与えられなければならないことなどが規定されるとともに、退職年金制度について人事院が意見の申出をすることができることを定めている。公務員にとつて、きわめて重要な国家公務員共済組合法のこの改正につき、以下簡単に説明する。
 順序として、最初に、改正の主要点について。
 第1に、新制度は、官吏、雇傭人を通じての統一的な年金制度である。
 第2は、給付原因たる事故の範囲が広く、かつ、給付内容が改善された。
 第3は、掛金が高くなる。(これに相当する分が退職手当として増額されることとなると説明されている。)
 第4は、社会保険との均衡を考慮して、給付に最低保障制をおいた。
 第5は、多額所得停止制度が廃止され、若年停止制度に代えて減額退職年金制度を採用し、退職年金の支給開始年齢を55歳に延長した。以下、………(第100号18頁)

 そうだったのか。掛金が高くなる分が退職手当として増額されることになったのか。この年、例えば、勤続年数の短い自己都合退職者の退職手当が倍増したことなど、大幅に増額されたことは知っていたのだが、共済組合の掛金の増額と引き換えだったのだ。
 「参考までに新旧退職手当の支給率表を示すと次のとおりである」として、最後に退職手当支給率新旧比較表が掲載されている。一部抜粋する。(同号23頁)

1 普通退職
 1年以上10年以下の期間1年につき 60% → 100%
 11年以上20年以下の期間1年につき 65% → 110%
 21年以上 (略)
 (旧)勤続5年以下の者は右の率の50%、勤続6年以上10年以下の者は右の率の75%とする。
 (新)自己都合(傷病の場合を除く。)により退職した勤続5年以下の者は右の率の60%、勤続6年以上10年以下の者は右の率の75%とする。

 ちなみに、『公務員の退職手当法詳解』(第4次改訂版、平成18年)に退職手当の沿革や改正の経緯が載っているが、「掛金が高くなる分が退職手当として増額される」こととなったことまでは言及されていないようである。


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517. 文官任用制度の歴史Ⅲ(続き) [49.「人事院月報」拾い読み]

 「文官任用制度の歴史〔Ⅲ〕」の続き。

(5)戦時立法
 昭和15年10月東条内閣となり、同年12月8日太平洋戦争が開始されてからは、官庁機構と定員は益々膨張した。同時に軍人の勢力が行政官庁内部に伸びたことも当然であつた。ことに情報局情報官、企画院調査官(昭18.11.1以降は軍需省軍需官となる。)等には現役の軍人が盛んに任用されて威勢を振い、当時の文官にとつての苦しい思い出となつている。また、軍需産業界などの民間人で軍需省等の官職に送り込まれ、産業の指導、統制、連絡等にあたつた者もあつた。これらの任用はいずれも、勅任文官については前述の文官任用令の改正の結果として、また、奏任文官については単独の特別任用令(昭12、勅611。昭15、勅855。昭16、勅718等)により行われたのである。
 東条内閣は機構の膨張に対して、昭和17・8年度に行政整理を行つて一応官の定員を減少した。しかし、定員の減少は職員の昇任を困難にした。このため、昭和18年3月「各庁職員優遇令」(勅137)を発し、「重要ノ職ニ当リ功績顕著ナル」奏任文官を定員外で勅任とし、同じく判任文官を定員外で奏任とする途を開いたので、定員の制度は乱れた。
 戦争がたけなわになると召集、従軍等により外地でも内地でも官吏が多数死亡したり負傷したりした。昭和19年1月に「各庁職員危篤又ハ退官ノ際ニ於ケル任用等ノ特例」(勅5)を発して、これらの者を定員や任用資格にかかわりなく昇任させる途を開いた。職員を戦争目的に駆り立てる報償手段のにおいが強い立法であつた。
 この時期には学生も例外なく勤労奉仕に動員され、または召集されて高等試験の続行が不可能となつた。………(第97号11頁)

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516. 文官任用制度の歴史Ⅲ [49.「人事院月報」拾い読み]

 「文官任用制度の歴史」は2回で終わりではなく、人事院月報第97号(1959年3月号に続きの〔Ⅲ〕が掲載されていた。例によって、適宜抜粋する。

  Ⅴ 昭和初頭から終戦までの任用制度の変遷

 (1) 政党勢力の影響
 大正の末から昭和のはじめにかけては政党勢力の最盛期であつた。ことに昭和2年6月に憲政会と政友本党とが合同して立憲民政党が生まれてからは、政友会、民政党の2大政党が対立し、両党の総裁が交互に首相として政権を握つた。政党勢力の官庁内部への浸透の様子については、前回にも触れたとおりであるが、そのための手段として活用されたのが、文官分限令第11条第1項第4号の「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」は休職をじることができるという規定であつた。この規定によつて、政府与党になじまぬ官吏を休職にしたのである。休職を命じられた者は休職期間が満了すると当然に退官するというのが分限令による制度であつた。この規定による休職期間は、分限令制定当初は高等官、判任官の区別なく3年であつたが、明治36年以後改められ(勅156)、高等官の場合は2年、判任官の場合は1年とされた。
 この規定を用いて、時の政府が事実上自由に官吏を罷免するようになつたので、政策の決定に関与する上級の官吏は、多かれ少かれ政党色に染まることになつた。ことに、選挙に関して強い勢力を持つ地方長官についてはこのことがはなはだしく、政変ごとに更迭されたのである。………(第97号8頁)

 戦前の分限制度で「休職期間が満了すると、当然に退職」とされていたことは知っていたが、このような使われ方をしていたとは思わなかった。現在の分限制度では「当然に復職」とされている。

(3) 政党勢力の没落
 昭和7年5月15日に陸軍と海軍の若手将校の一団によつて、政友会内閣の犬養首相が暗殺された5・15事件を機に、政党政治の全盛時代は終わりを告げた。すでに昭和6年9月若槻内閣の時代に関東軍によつて満州事変の火ぶたが切られており、いわゆる非常時が始まつたのである。
 犬養内閣の後をうけて退役の海軍大将斎藤実を首班とした挙国一致内閣が成立した。この内閣の下で当時俗に官吏身分保障令の制定といわれた分限の制度改正が行われた。すなわち、内閣成立後間もない昭和7年9月24日公布の文官分限令の改正(勅253)と文官分限委員会官制の制定(勅254)がそれである。
 その内容は、「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」に官吏に休職を命じる場合は、高等官については文官高等分限委員会、判任官については文官普通分限委員会の諮問を経なければならないことにし、本人の同意があつた場合に限りこの諮問の手続きを省略しうるものとしたこと、および、従来官吏が刑事事件に関して単に告訴または告発されたときには休職を命じることができたのを、起訴されたときに改めたことである。
 ………このようにして、政党は官吏に対するその最大の武器を失つた。
 枢密院はこの制度改正には双手を上げて賛成した。………
 この時政府は自由任用の官の範囲の縮少をも枢密院に対して約束した。」………
 これは2年後の昭和9年4月9日同じ斎藤内閣の手によつて実現した。その結果、内務省警保局長、警視総監、貴族院書記官長、衆議院書記官長が自由任用の範囲から削られ、自由任用として残つたのは内閣書記官長、法制局長官、各省政務次官、各省参与官、秘書官のみとなつた。このままの形で終戦時まで続いたのである。(同号9頁~)

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515. 文官任用制度の歴史Ⅱ [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き「文官任用制度」を取り上げる。今回は人事院月報第96号(1959年2月発行)から書き留めたい部分を中心に抜粋したい。

Ⅲ 勅任文官の任用の規制

(1) 憲政党の猟官
 文官試験試補及見習規則から文官任用令へと任用法体系は整備されたが、いずれも奏任文官、判任文官についての規定であつて、勅任文官は自由任用にまかされていた。勅任文官の任用資格要件が定められたのは、政党による猟官を経験した後だつたのである。
 すでに見たとおり文官任用令制定当時においては、議会で議席の過半数を制する野党諸派と政府との間に激しい抗争が繰り返されていたのであつたが、明治27年7月に日清戦争が開始された後は政治的休戦が行われた。野党は戦争遂行に全面的に協力する態度をとつたのである。戦後経営についても当時の第2次伊藤内閣は自由党(板垣退助等を中心とする。)と提携し、次の松方内閣も進歩党(大隈重信等を中心とする。)と妥協提携した。政党人の猟官はこのような機会に開始されたのである。松方内閣には進歩党党首大隈重信が外務大臣として入閣し一時農商務大臣をも兼ねたので、党員は各省の勅任参事官や農商務省の局長等として配置された。
 松方内閣の次の第3次伊藤内閣の時代に自由党と進歩党とは合同して憲政党を結成した。これを契機に伊藤内閣は総辞職し、憲政党によつてわが国最初の純然たる政党内閣が組織された。維持31年6月30日のことである。閣僚は陸相、海相以外は全部党員で、首相大隈重信以下旧進歩党派が4人、旧自由党派が3人であつた。
 内閣書記官長、法制局長官はもちろん党員であり、各省次官のすべておよび警視総監にも党員が任命された。さらに各省局長や地方長官等にも多くの党員が任命されたのであつた。
 この内閣の寿命はわずか4ヶ月余りであつたが、内閣成立のはじめは世人はこれに大いに期待した。政党が多年主張するところの藩閥政治の積弊の一掃とこれに伴う行政機構の整理刷新がどこまで実現するのかを注目したのである。
 政府もこの要望に沿つて臨時政務調査局を設置し、行政整理の調査に着手させた。憲政党自身もこれと併行して政務を調査し、政府の臨時政務調査局よりも一足先きに結論を示した。これはきわめて急進的なものであつた。
 すなわち、任用制度に関しては、現在の勅任官、奏任官を全員解任して新たに任命しなおすこと、文官任用令を改正して無試験任用の範囲を拡張すること等を主張した。その他行政整理等については、文部省、司法省、警視庁の廃止、控訴院の減少、勅任参事官の全廃、郡長の公選、市町村長の権限拡張、県の統廃合等を目指すものであつた。(注1)
 このような党員の要求は、ようやく誕生したばかりでその基礎もまだ弱い政党内閣にとつては、大部分が実現不可能の事柄であり、政府首脳は党員と従来の強大な政治勢力との間で板挟みとなつたのであつた。結局政府のなしえたことは、明治31年10月22日公布の一連の勅令により官制改正で、官吏の定員を減ずること4,522名、人件費を節約すること約74万円に過ぎなかつた。(注2)
 この行政整理の発表から数日の後に憲政党内の旧自由党派と旧進歩党派との反目が表面化し、党は分裂した。前者が憲政党を名乗り、後者は憲政本党と」なつたのである。かくして大隈内閣は崩壊し、いわゆる藩閥の巨頭山県有朋を首班とし、閣員もまたすべて藩閥出身者をもつてあてた第2次山県内閣に政権が移った
各省次官等の勅任の官職を占めていた政党員もすべてその地位を去つたのはいうまでもない。
 (注1)朝日新聞社編「明治大正史」第6巻190頁参照
 (注2)大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻816頁参照 (第96号10頁)


 この後、山県は極秘のうちに文官任用令を改正するのである。

 政府は制度改正の理由を公表した。その中で述べたことは、行政官は本来武官のように下級から順次上級に累進すべきであるのに、奏任官の資格のない者を直ちに勅任官に任用するのは官紀荒廃の原因であること。また、法令がすでに詳細になつており、行政は専門技術の域に達しているから、自由任用を排して専門の学識ある者を任用する必要のあること、このように厳格な任用を行つても免官に対する保護を与えなければ官吏の忠実公正を期待できないこと等であつた。(注)
 (注)工藤武重「改訂明治憲政史」594頁以下参照 (同号11頁)

 したがつて、政党側としては任用制度を旧態にかえそうとするには、将来政権を握つた際に勅令を改正するよりないわけである。事実憲政党幹部星亨は、「乃公共は任用令や分限令を左程意に掛けない。どうせ山県との提携は何時までも続くものではなく、次の議会に於ていよいよ政党の手に政府を引受くる場合にはあんな勅令の一通や二通はなんでもない……」(注)と豪語したのであつた。
 政府側においてもこのことを憂慮し、これを防ぐ手段としてとつたのが任用令等の改正を枢密院の諮詢事項とすることであつた。任用令改正の翌33年山県首相は極秘のうちに上奏し、同年4月9日これらのことを諮詢事項とする旨の「御沙汰書」の下付を受けたのである。
 すなわち、枢密院官制及事務規程(明21,勅22)の第6条には枢密院諮詢事項が列挙されているが、その第6号「前諸項ニ掲クルモノノ外臨時ニ諮詢セラレタル事項」として、以後は文官の任用、分限、懲戒、試験等に関する勅令の制定改廃は必ず枢密院の審議に付すべきである、というのが御沙汰書の内容であつた。
 枢密院は帝国憲法草案の審議機関にあてることを主たる目的として明治21年に設置されたのであるが、憲法発布後はその第56条で「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と憲法上の必要機関とされた。議長1人および顧問官二十数名(いずれも親任官)からなる合議体として運営された。内閣総理大臣および国務大臣も会議に出席して表決する権利をもつていたが、顧問官に対応しようとしてもその人数は常に少数派である。したがつて、政府の重要な政策は常に枢密院によつて制約されざるをえず、政党内閣が出現した場合はことにこのことが甚だしかつたのである。顧問官へは「元勲」および「練達ノ人」が任命されるのであり、超然主義的な傾向になじんでいた。このことは、山県有朋が明治38年以後大正11年の彼の死に至るまで、明治42年中に一時伊藤博文に代つたほかはずつと議長の席を占めていたことからもその一端をうかがえるであろう。かくして枢密院は以後任用令等に対する関係においては、政党勢力の行政内部への進出に有利な条件を与えるような改正に常に極力反対したのであつた。
 (注)日本国政事典刊行会編「日本国政事典」第3巻264頁参照 (同号11、12頁)

 大正時代においては、原内閣の時から後は、任用制度はたいした変化を受けることがなかつた。任用制度の改正は、原内閣の時の試みですでに限界に達したのである。しかしながら、この時代は政友会と憲政会の二大政党そのほかの政党勢力が与党野党を問わずに進出して、政争は津々浦々の市町村にまで及んだ。行政内部にも政党的色彩が浸透し、ことに地方長官は任用資格を要する官であるにもかかわらず、実質的には政党の支部長と異ならない観を呈するに至つたという。
 このことから、閉鎖的な任用法規によつて任用されたいわゆる有資格者の内部に、党派的迎合と対立とが生じたことが推察される。しかしこのような状態になつても、勅任、奏任、判任、雇傭人の厳然たる身分的差別を基礎として、天皇の任免大権の下に服属する官吏制度が変化させられたわけではなく、そのままの形で政党に利用されたに過ぎないのであつた。したがつて、対内部的には忠実無定量の服従、対外部的には天皇主権の行使者としての官吏のあり方が、政党勢力の進出によつて格別に民主化されるということもなかつたのである。
 なお、大正13年8月、加藤内閣の時に各省次官と勅任参事官とを自由任用の範囲から落し、代りに設けた政務次官と参与官とをこれに加えた。政府は政務次官と参与官とを衆議院議員の中から任命し、以後の政府もこれにならつた。貴族院議員が数名これに加わることもあつた。(同号15頁)


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514. 文官任用制度の歴史 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第95号(昭和34年1月発行)及び第96号(同年2月発行)には、「文官任用制度の歴史Ⅰ・Ⅱ」が掲載されている。執筆者は、任用局企画課の和田善一。

 まず、Ⅰの冒頭で記述の意図を述べる。

 まえがき:明治時代から昭和にかけて旧官吏制度のもとでは、文官の任用の基本をなす法規として長く文官任用令が施行されており、その前後にそれぞれ文官試験試補及見習規則と文官任用叙級令が施行された時代があつた。本稿ではこれらの法規の制定改廃の事情を国家公務員法施行前まで追つてみたいと思う。任用令の制定やその大きな改正が行われた場合には、それを促した社会的背景が常に法規の背後に存在している。また、いつたん制度の改変が企てられていながら種々の事情によつて所期の目的どおりに実現しないこともあつた。これらの点を含めて簡単に述べてみるつもりである。(第95号10頁)

 まえがきに続いて「1 文官任用制度の創設」について述べる。

(1) 規則制定前の情実任用
 明治18年12月22日太政官制度にかわつて内閣制度が成立したが、4日後の12月26日初代の内閣総理大臣伊藤博文は「各省事務ヲ整理スルノ綱領」を各省大臣に示達した。この綱領の中で試験による官吏任用の制度を樹立する必要が宣言されている。これがわが国で官吏の任用制度の創設を公に日程にのせたそもそもの始めであつた。(同頁)

 情実任用の弊害については、一つには、明治維新で指導的役割を果たした薩長2藩の出身者やこれらの勢力とつながる者が政府の要職に任用される比重が圧倒的となっていたこと。もう一つは、反政府的な自由民権運動の切り崩しのため、その指導的分子に官職を与えることもかなり行われたことが紹介されている。
 そして、「情実任用の勢を助けたのは、任用に対する法的規制が存在しなかつたことのほかに、官の定員の制度が設けられていなかつたこともまた一因であつた」と説明する。
 当時の乱れた状況を谷干城の意見書を引用することで紹介している。

 時の農商務大臣谷干城は明治20年に内閣に提出した意見書の中でその点を痛烈な口調で次のように述べている。
 「而ルニ其ノ後(注、各省官制制定後のこと。)僅々一年ナラザルニ漸ク破壊シ百度皆改革以前ニ復帰スルノ実ヲ呈シ、………蓋シ其ノ因テ来ル処ヲ推究スレハ情実ノ牽連ヨリスルノ弊害ニ非サルハナシ、………蓋シ方今行政ノ状タル必要ノ事業アルカ為ニ官ヲ設ケ官ヲ設ケタルカ為ニ人ヲ用フルニアラス、却テ人ノ為ニ官ヲ設ケ官ノ為ニ事業ヲ設クルノ風アリ。大本ヲ転倒スル亦甚シト云フヘシ。之ノ故ニ有効者ヲ賞スルニ官ヲ以テシ、旧友ヲ憐ムニ官ヲ以テシ、私徳ニ報スルニ官ヲ以テシ、朋党ヲ造ルニ官ヲ以テシ、遊楽ヲ求ムルニ官ヲ以テシ、甚キニ至テハ在野有志ノ口ヲ○制(けんせい)スルニ亦官ヲ以テスルモノアリ。而シテ無用ノ官吏終日不要不急ノ事務ニ従事シ、徒ラニ繁雑ノ弊ヲ増シ、却テ要務ヲ遅滞スルコト月ニ愈甚シ。(同号11頁)

かくして遂に明治20年7月23日、文官試験試補及見習規則(勅37)が公布され、翌年1月から施行されることとなった。
 当初の高等試験と帝国大学卒業生の無試験任用などの説明が述べられた後、次のようにまとめている。

 以上のようにしてわが国最初の官吏の任用制度は、勅任の行政官(当時は次官および局長の一部等)の任用が自由である点を除いては、一応の形を整えた。このようにして任用された行政官は、当時の政府の考え方によれば、政党の勢力から絶縁して、人民が向う方向を誤らないように指導し統治すべきものとされたのである。すなわち、憲法発布の翌日内閣総理大臣黒田清隆は地方長官集会席上において「………憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非ざるは勿論なり。唯だ施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投じて団結をなし所謂政党なる者の社会に存立するは亦情勢の免れざる所なり。然れども政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざるべからず。各員宜しく意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭宜しきを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むべきなり。………」と演説し、また、黒田の次の総理大臣山県有朋も明治22年12月25日各府県知事への訓示中で「………今茲に最も注意を要する所の者は此時に当り各位は宜しく屹然として中流の砥柱(しちゆう)たるべきのみならず、亦宜しく人民のために適当の標準を示し、其偏頗を抑へ向う所を謬らざらしむることを勉めざるべからず。要するに行政権は至尊の大権bなり、其執行の任に当る者は宜しく各種政党の外に立ち引援附比の習を去り、専ら公正の方向を取り以て職任の重に対うべきなり。………」と述べている。現在は公務員が国民全体の奉仕者となるために、その政治的中立が要求されるのに対し、当時のそれは全く異つた考え方の上に立つものであつた。(同号13頁)

 この後、「Ⅱ 任用制度の再編成」と題して、文官試験試補及見習規則に代わって文官任用令が制定されるに至った背景には、帝国議会における政府と野党との激烈な抗争があり、天皇の詔勅により定員3,272人、俸給庁費その他の行政費節減170万円に及ぶ行政整理が行われたことがあったことが紹介されていく。

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513. 鵜飼信成=人事院月報第94号(続き) [49.「人事院月報」拾い読み]

 鵜飼信成の「民主的行政の条件」の後半を掲載する。

  国家公務員法案の批判

 このような批判の根拠としては、およそ次のようなことが考えられよう。まず第一に、この批判は、従来、人事行政の基本を掌握していた内閣の権限に対する評価から出発する。そうして内閣の手から、人事行政の基準設定権を切りはなすことによつて、人事行政の基礎にある一切の派閥的な関係を清算しようとするものである。そのような方式は、一応は、内閣から多かれ少かれ独立した地位をもつ人事行政機関の設置によつて、実現せられるであろう。
 しかしながら、この批判は、これだけをもつては満足しなかつた。それは第二の要素として、新たに独立性を与えられた人事行政機関に対する、別個の民主的コントロールの必要性を主張する。なるほど、内閣から独立した人事行政機関の設置が、内閣による人事行政権の独占に対する重要な改革の意味をもつことは、疑をいれない。けれども、この場合注意しなければならないことは、このようなアメリカ的ないわゆる科学的人事行政が、日本の政治的社会的条件の下でそのままの形で通用することはむずかしい、ということである。いいかえれば、問題は、外国で、一定の時期に、一定の条件の下で、十分な意味をもち、重要なものとして発展した制度が、それとは歴史的条件が異なり、したがつて当面の目標も異なる他の国の制度改革の方式として、無条件で移入されるということの困難さを、どのように理解するかということにある。
 もしこの点について正しい認識が得られるとするなら、少なくとも、戦後日本の制度改革の基本的視覚として、制度の民主化ということのもつている第一義的な重要性が把握されなければならない。そうしてもしそのことが明らかにされるなら、ひとり、新しい人事行政機関の内閣からの独立性だけでなく、それの新しい意味での民主化、したがつて民主的統制方式の設定の重要さが、理解されなければならないであろう。それについてどのような方法をとるにせよ、それが結局において、ある意味において、人事委員会の地位権限の弱化に終ることは自然でなければならない。
 国家公務員法案の上記のような批判者は、この立場から、たとえば、次のような改正を主張した。第一に、人事官は、内閣が両院の同意を得て任命するというのを改めて、国会の指名によつて内閣が任命するものとすること、第二にまた、人事官のうち1名は、とくに公務員全体の中から、その直接秘密選挙によつてえらぶものとし、他の2名は公務員以外のものでなければならないが、その資格要件として掲げられた政党役員でないことなどの点は、これを排除するものとすること、そうして第三に、人事官に対する弾劾の訴追が、原案では内閣総理大臣の権限に留保されているのを、国会の議決がある場合には、内閣総理大臣は、これに基づいて訴追を行わなければならないものとすること、などがそれであつた。
 とくに、原案にない新しい機関として、人事管理委員会の設置を要求したことが注目される。この機関は、委員9名から成り、うち1名は少なくとも婦人とする。委員は、国会議員2名、公務員労働組合代表1名、総理大臣の指名する公務員1名、各界代表5名で、人事行政機関の協力機関として、そこに民意を反映するのに有力な役割を果たすことが期待された。たとえば、人事院規則を制定する場合には、人事院は、この機関の議に付したのち、内閣総理大臣の承認を経なればならない。もし両者の意見が一致しないときは、内閣総理大臣が国会に報告し、その決定にまつものとする、というような制度が要求されるのである。それは、一方では、内閣から独立した人事行政機関を設けることの重要性を認めながら、他方同時に、そのよな独立の機関が、独立であることによつて、かつての統帥権の独立のように、国民の意思をはなれて、勝手な方向に動いて行かないためであつた。

  人事院の意義

 この二つの方向、すなわち同じようにフーバー案を修正し、同じように、人事院の地位権限を弱めようとする、上述の政府案と民間案の間には、実は本質的な差異がある。そして、その外見的な類似にもかかわらず、実はこの本質的な差異の方が重要である。
 政府案は、いわば、内閣と枢密院が全権をにぎつていた旧官僚制への郷愁にねざした思想であつて、したがつて、新しい科学的人事行政の方式、とくに内閣から多かれ少かれ独立した人事行政機関としての人事院の制度に対して懐疑的なのである。人事院の地位権限の弱化はすべてこの見地から企図されたものである。
 これに反して、民間案は、もともと、人事行政に関する内閣の権限について懐疑的なのである。したがつて、基本的には、内閣から独立した機関としての独立の委員会制度については、強い共感を示している。
 ただその独立性は、内閣からの独立性にしか過ぎないので、その外の機関に対しては、ある意味で従属性をもつていることを要求するのである。たとえば、国会との関係でいえば、従来の制度では枢密院の議を経て、勅令の形式で制定せられていた人事行政の基準をなす規範が、新しい制度では、国会の制定する法律でなければならないこととなつたばかりでなく、人事院自身の制定する人事院規則の範囲までも制限して、重要な事項-たとえば職階制、試験、勤務条件等がすべて法律によることを、公務員法自身が明記するとか、人事官の罷免は、基本的には、公開の弾劾手続によつて最高裁判所において行われるものとし、この訴追は、一に国会の権限とすることなどである。その外に、民意によるコントロールの方式として、人事管理委員会の設置が要求されていることは、上に述べた。
 こうしてみると、日本官僚制の近代化のためには、実は、人事院制度の確立、多かれ少かれ内閣から独立し、内閣の掌理する人事行政事務の一般的基礎を確立する機能をおびた、新しい型の人事行政機関の存在こそ、必要不可欠なものであるといわなければならぬ。そうして、そのような人事行政機関として現に与えられている人事院は、旧憲法下におけるような統一的人事行政機構への復帰の要求にもかかわらず、民主的行政の存立の最後の条件として、必ず考慮されなければならぬものではなかろうか。
 (東京大学社会科学研究所教授)


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512. 鵜飼信成=人事院月報第94号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第94号(1958年12月発行)には、鵜飼信成が巻頭文を寄せている。鵜飼信成の専門は、憲法、行政法。岩波文庫の『市民政府論』は鵜飼の翻訳。

 民主的行政の条件

  はじがき

 戦後日本の行政改革の中心課題が、官僚制の改革におかれるべきであつたことは、明治以来の日本の行政の性格が、ひとえに日本官僚制の性格によつて規定されていたことからいつて当然であつた。
 行政の改革そのものは、行政組織の面にも、行政作用の面にも、多くの問題をもつており、それらのもろもろの面について適正な改革の方向を発見することが重要な課題であることは不定できないけれども、しかし何よりも根本的な問題は、このような組織を現実に動かし、行政の作用を現実に行つていく人々、すなわち官吏が、一般に官僚意識の名で呼ばれるような意識形成の下に、官僚制と呼ばれるような特有の存在をもつていたという事実で、これをいかに改革するかを考えないでは、行政の民主化はありえないといつてもよかつたのである。
 このことは、戦後の日本の新しい方向づけを指摘すべき地位にあつた連合国軍総司令部の明確に意識していたところである。たとえば、総司令部民政局の報告である「日本政治の新しい方向づけ」(Political Reorientation of Japan,September 1945 to September 1948,Report of Government Section,Supreme Commander for the Allied Powers,1948)によると、「占領の始まる前から、西欧の学者だけでなく、日本の学者によつても、日本官僚制が、国民生活の全体主義的規制のための、主要な道具であることが認められていた」のである。けれども、この方式には、一つの困難な問題点ががある。それは、連合国軍の占領管理が、いわゆる間接管理の方式、すなわち日本の既存の官僚機構を通じてのみ、占領統治を行うという方式を、採用することに決したからである。
 ところでもしもこのように、「占領目的を達成するために、既存の日本政府の機構を利用するということに決まると、それは必然的に、次のような冒険を伴なうといわなければならない。その冒険とは、イデオロギー的に、占領政策に反対の官僚が、行政的なサボタージュによつて、占領政策にはそれを遂行するためおのずから展開される日本の政治指導者のプログラムを無にしてしまうことである」(前掲246頁)。そうしておそらくこのようなサボタージュの中で最も根本的なものは、日本官僚制の改革そのものをサボタージュすることでなければならない。もしこのような事情によつて、行政改革が停滞するようなことになれば、一切の行政改革が、その目的を達しえないことになるであろう。
 科学的人事管理という近代的な原理を、日本の人事行政にとり入れるということがら自体が戦後日本の当面した社会的政治的諸条件の中で、決して単純自明なことでないばかりでなく、その実現の方式がきわめて困難な状況の下におかれていたことが、これでよくわかるのである。
 以下、国家公務員法の制定過程の分析を通じて、この点がどのように展開されたかを具体的に明らかにしてみることにしよう。

  国家公務員法の制定

 国家公務員法の制定が、連合国総司令部占領政策の重要な焦点をなすものであつたことは、上に述べたとおりであるが、それが科学的人事行政の方向を目指すものとすれば、当然そこに人事委員会制度の設置が要求されることは、明らかでなければならない。このことを明確に洞察したものは、昭和22年のはじめに、当時の行政調査部公務員部長、現在の人事院総裁浅井清博士が「ニッポンタイムズ」に公表した一文であつた。
 アメリカ公務員制度顧問団のフーバー氏は、当初からその方向であつたものと想像される。昭和22年6月11日、フーバー顧問団が片山内閣総理大臣に国家公務員法の草案を提示したとき、その内容として示されたものが5点あるが、その第四に「民主的諸国家の近代的人事委員会の長所をとり、さらに進展させた、全国的中央人事行政機関を確立し、その組織・職務・権限・財政・設備につき規定し、またこの機関の永続性を規定した」と述べられている。表現自体はきわめて控え目であるが、そこに公務員制度改革の眼目があつたことは、この人事委委員会制度をめぐつての攻防が、その後の国家公務員法制定の過程における焦点の大きな一点をなしていたことに示されている。
 政府は、同年8月30日の第1国会に、このフーバー案に基づく国家公務員法案を提出したが、その中で、フーバー案はかなりの程度まで修正をうけていた。修正された点は種々あるが、とくに興味をひくのは、上に述べたフーバー構想に基づく人事院の地位が、かなり弱められたことである。すなわち、その権限の特色をなしていた(a)独立の規則制定権は、内閣総理大臣の承認を経て制定することに改められ、(b)その決定処分は、裁判所による審査を受けない、という規定は削除され、(c)その予算は、自ら作成し、原則として内閣によつて修正されない、という規定も削除された。
 ではいったいフーバー案は、何故に、このような修正をこうむつたのであろうか。いいかえれば、法案作成の任に当つた日本政府は、何故に、人事院の地位を弱めるような修正を加えたのであろうか。その理由を明らかにすることは、かならすしも容易ではない。けれども」上に挙げた総司令部報告書の述べているような考察の入る余地が十分にあることは否定できないであろう。
 そしてもしそれが正しいとすれば、人事院の地位を弱めることによつて、人事行政の改革が効果的に行われることを阻止しようとする意思が、明示的にか、暗黙のうちにか、そこに示されていることは見逃すことのできない事実である。
 しかしこの場合、政府の示した方向と、外見的に同じ方向をとろうとする論者が、別の方面にいたことを忘れてはならない。それは民間の公務員制度改革論者である。これらの改革論者(たとえば公法研究会。その意見は当時「法律時報」および東大の「大学新聞」に発表された)は、これとは全く違つた立場から、全く違つた意図をもつて、政府の国家公務員法案を批判した。そうしてその批判は、その背後にあるフーバー構想にも及び、人事院の地位に関する法案の規定に対しても、フーバー案に対しても、同じ批判を加えたのである。批判の結論は、人事院の地位権限を、政府案におけるよりもさらに一層弱体化しようということであつた。
 では、これら民間の批判者たちの、批判の意図と根拠とは、いつたいどこにあつたのであろうか。
(続く)


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511. 藻利重隆=人事院月報第87号(続き) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に引き続き、藻利重隆「テイラアの精神革命論と人間関係論」(人事院月報1958年5月号)。

 ・・4・・
 われわれは、科学的管理の本質をなすものとして提唱せられる精神革命論の意義を、その広狭いずれの意味においても、否定せざるをえないこととなつた。それではテイラアの精神革命論はなんらの意味をももちえないものであろか。けつしてそうではない。けだし、テイラアが精神革命の内容として意識的に陳述するとことは広狭二種の精神革命につくされているようである。また、その重要性の提唱も意識的にはこれを科学的管理の本質と解することにつくされているようである。ところが、このような陳述によつてテイラアがつくしえなかつた真意は、かえつて別のところにあるように思われる。そして、われわれはこれを、科学的管理の導入を容易にし、またそれを成功させるための必要条件をなすものだと解することにもとめることが出来る。つまり、科学的管理の導入体制を労資双方について形成するところに、テイラアの主張する「精神革命」の真意があつたものと解するわけである。科学的管理の導入には相当の期間を必要とするのであつて、短期間のうちにこれを実現するときは、成功はおぼつかない、とするテイラアの主張の意味をわれわれは正しく理解しなければならない。それは、管理制度の「変更」(change)に関して「変更の速度」(rate of change)の問題を取りあげ、「精神革命」とよばれる精神的な導入態勢の形成について配慮することの必要を説くとともに、そのために要する時期に留意するべきことを強調しているわけである。テイラアは科学的管理が労働者のあらゆる反対にもかかわらず進展するべき歴史的必然性をもつことをのべているのであるが、しかしこのことは、労働者の反対を緩和し、これを克服するための努力が無用であることを意味しないのみならず、かえつて、科学的管理の円滑な導入をはかるために、こうした努力が必要であることを意味しているものと解しなければならない。そして、これに答えようとするものこそが、まさにテイラアのいわゆる「精神革命」の真意をなすのであり、したがつて、精神革命は科学的管理の導入に対する促進条件をなすものと解せざるをえないのである。ところが、このような促進条件の整備は、ひとり科学的管理の導入に関してのみ要請せられるものではなくて、あらゆる「変更」の導入に関して要請せられる。テイラアの言をもつてすれば「・・科学的管理導入の歴史のみならず、労働節約機械導入の歴史もまた、どのような産業においても急激な変更をなすことは不可能であることを示している」のである。ところで、こうした問題こそは昨今いわゆる「人間関係論」の名において論ぜられている問題であることを注意しなければならない。けだし、人間関係論ないし人間関係論的人事管理こそは、「変更」の導入に際して配慮せられるべき「変更の速度」の問題をその中心問題として取りあげるものだからである。ところで、この「変更の速度」を規定するものをテイラアは「精神」ないし「精神的態度」の変更に要する時間にもとめているのであるが、人間関係論はこれを「心情」ないし「行動の型」の変更に要する時間にもとめているのである。
 ただ、人間関係論的人事管理がこれまで労働者の心情の問題を中心的に取りあげて、管理者の心情の問題を等閑に付し、これをほとんど取りあげていないのに反して、テイラアの精神革命論においては、管理者の問題がとくに重視せられていることは、これを看過しえないであろう。テイラアによれば、改善その他の変更の導入に関して発現する紛争の十分の九は管理者側から発生し、わずかに十分の一が労働者側から発生するにすぎない。すなわち管理者の側における「精神革命」の完成が、科学的管理の導入その他の改善にとつてきわめて重要であることを提唱するのがテイラアにほかならない。管理者ないし経営者の「頭の切替え」の必要が強調せられ、経営者教育の緊要性が論ぜられている今日、テイラアの精神革命論の意義はけつして軽視せられえないであろう。

 ・・5・・
 「テイラア証言」におけるテイラアの陳述は、必ずしも一貫性を有しないのみならず、さらにそこには多くの矛盾が見出される。そこに強調せられる「精神革命」ももとよりこの例外をなすものではない。それが「労資協調主義の完成」として理解せられるかぎり、精神革命は科学的管理とは無関係であり、またそれが抽象的な「科学主義の完成」のみを意味するならば、それは科学的管理の前提条件とはなりえても科学的管理の本質を形成することにはならない。けれどもこのことはテイラアにおける精神革命論が無意味であることを意味しない。けだし、テイラアの精神革命論には「変更」の導入に関してその精神的受入態勢を形成することとしての別の意義が見出されるのであるが、ここにこそわれわれは、今日の人間関係論が取りあげている「変更の速度」の克服に関する先駆的問題提起を見出すことが出来るからである。それはひとり科学的管理のみならず、あらゆる能率増進上の諸方策の実施に関して、これを円滑化し、さらに効果的なものにするための人間的条件の形成を問題とするものにほかならない。われわれは「精神革命論」の名において今日の人間関係論的問題点を看破し、高唱したテイラアの卓見に深く経緯を表せざるをえないのである。

 著者《もうり しげたか》一橋大学教授 経営学専攻

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