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515. 文官任用制度の歴史Ⅱ [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き「文官任用制度」を取り上げる。今回は人事院月報第96号(1959年2月発行)から書き留めたい部分を中心に抜粋したい。

Ⅲ 勅任文官の任用の規制

(1) 憲政党の猟官
 文官試験試補及見習規則から文官任用令へと任用法体系は整備されたが、いずれも奏任文官、判任文官についての規定であつて、勅任文官は自由任用にまかされていた。勅任文官の任用資格要件が定められたのは、政党による猟官を経験した後だつたのである。
 すでに見たとおり文官任用令制定当時においては、議会で議席の過半数を制する野党諸派と政府との間に激しい抗争が繰り返されていたのであつたが、明治27年7月に日清戦争が開始された後は政治的休戦が行われた。野党は戦争遂行に全面的に協力する態度をとつたのである。戦後経営についても当時の第2次伊藤内閣は自由党(板垣退助等を中心とする。)と提携し、次の松方内閣も進歩党(大隈重信等を中心とする。)と妥協提携した。政党人の猟官はこのような機会に開始されたのである。松方内閣には進歩党党首大隈重信が外務大臣として入閣し一時農商務大臣をも兼ねたので、党員は各省の勅任参事官や農商務省の局長等として配置された。
 松方内閣の次の第3次伊藤内閣の時代に自由党と進歩党とは合同して憲政党を結成した。これを契機に伊藤内閣は総辞職し、憲政党によつてわが国最初の純然たる政党内閣が組織された。維持31年6月30日のことである。閣僚は陸相、海相以外は全部党員で、首相大隈重信以下旧進歩党派が4人、旧自由党派が3人であつた。
 内閣書記官長、法制局長官はもちろん党員であり、各省次官のすべておよび警視総監にも党員が任命された。さらに各省局長や地方長官等にも多くの党員が任命されたのであつた。
 この内閣の寿命はわずか4ヶ月余りであつたが、内閣成立のはじめは世人はこれに大いに期待した。政党が多年主張するところの藩閥政治の積弊の一掃とこれに伴う行政機構の整理刷新がどこまで実現するのかを注目したのである。
 政府もこの要望に沿つて臨時政務調査局を設置し、行政整理の調査に着手させた。憲政党自身もこれと併行して政務を調査し、政府の臨時政務調査局よりも一足先きに結論を示した。これはきわめて急進的なものであつた。
 すなわち、任用制度に関しては、現在の勅任官、奏任官を全員解任して新たに任命しなおすこと、文官任用令を改正して無試験任用の範囲を拡張すること等を主張した。その他行政整理等については、文部省、司法省、警視庁の廃止、控訴院の減少、勅任参事官の全廃、郡長の公選、市町村長の権限拡張、県の統廃合等を目指すものであつた。(注1)
 このような党員の要求は、ようやく誕生したばかりでその基礎もまだ弱い政党内閣にとつては、大部分が実現不可能の事柄であり、政府首脳は党員と従来の強大な政治勢力との間で板挟みとなつたのであつた。結局政府のなしえたことは、明治31年10月22日公布の一連の勅令により官制改正で、官吏の定員を減ずること4,522名、人件費を節約すること約74万円に過ぎなかつた。(注2)
 この行政整理の発表から数日の後に憲政党内の旧自由党派と旧進歩党派との反目が表面化し、党は分裂した。前者が憲政党を名乗り、後者は憲政本党と」なつたのである。かくして大隈内閣は崩壊し、いわゆる藩閥の巨頭山県有朋を首班とし、閣員もまたすべて藩閥出身者をもつてあてた第2次山県内閣に政権が移った
各省次官等の勅任の官職を占めていた政党員もすべてその地位を去つたのはいうまでもない。
 (注1)朝日新聞社編「明治大正史」第6巻190頁参照
 (注2)大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻816頁参照 (第96号10頁)


 この後、山県は極秘のうちに文官任用令を改正するのである。

 政府は制度改正の理由を公表した。その中で述べたことは、行政官は本来武官のように下級から順次上級に累進すべきであるのに、奏任官の資格のない者を直ちに勅任官に任用するのは官紀荒廃の原因であること。また、法令がすでに詳細になつており、行政は専門技術の域に達しているから、自由任用を排して専門の学識ある者を任用する必要のあること、このように厳格な任用を行つても免官に対する保護を与えなければ官吏の忠実公正を期待できないこと等であつた。(注)
 (注)工藤武重「改訂明治憲政史」594頁以下参照 (同号11頁)

 したがつて、政党側としては任用制度を旧態にかえそうとするには、将来政権を握つた際に勅令を改正するよりないわけである。事実憲政党幹部星亨は、「乃公共は任用令や分限令を左程意に掛けない。どうせ山県との提携は何時までも続くものではなく、次の議会に於ていよいよ政党の手に政府を引受くる場合にはあんな勅令の一通や二通はなんでもない……」(注)と豪語したのであつた。
 政府側においてもこのことを憂慮し、これを防ぐ手段としてとつたのが任用令等の改正を枢密院の諮詢事項とすることであつた。任用令改正の翌33年山県首相は極秘のうちに上奏し、同年4月9日これらのことを諮詢事項とする旨の「御沙汰書」の下付を受けたのである。
 すなわち、枢密院官制及事務規程(明21,勅22)の第6条には枢密院諮詢事項が列挙されているが、その第6号「前諸項ニ掲クルモノノ外臨時ニ諮詢セラレタル事項」として、以後は文官の任用、分限、懲戒、試験等に関する勅令の制定改廃は必ず枢密院の審議に付すべきである、というのが御沙汰書の内容であつた。
 枢密院は帝国憲法草案の審議機関にあてることを主たる目的として明治21年に設置されたのであるが、憲法発布後はその第56条で「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と憲法上の必要機関とされた。議長1人および顧問官二十数名(いずれも親任官)からなる合議体として運営された。内閣総理大臣および国務大臣も会議に出席して表決する権利をもつていたが、顧問官に対応しようとしてもその人数は常に少数派である。したがつて、政府の重要な政策は常に枢密院によつて制約されざるをえず、政党内閣が出現した場合はことにこのことが甚だしかつたのである。顧問官へは「元勲」および「練達ノ人」が任命されるのであり、超然主義的な傾向になじんでいた。このことは、山県有朋が明治38年以後大正11年の彼の死に至るまで、明治42年中に一時伊藤博文に代つたほかはずつと議長の席を占めていたことからもその一端をうかがえるであろう。かくして枢密院は以後任用令等に対する関係においては、政党勢力の行政内部への進出に有利な条件を与えるような改正に常に極力反対したのであつた。
 (注)日本国政事典刊行会編「日本国政事典」第3巻264頁参照 (同号11、12頁)

 大正時代においては、原内閣の時から後は、任用制度はたいした変化を受けることがなかつた。任用制度の改正は、原内閣の時の試みですでに限界に達したのである。しかしながら、この時代は政友会と憲政会の二大政党そのほかの政党勢力が与党野党を問わずに進出して、政争は津々浦々の市町村にまで及んだ。行政内部にも政党的色彩が浸透し、ことに地方長官は任用資格を要する官であるにもかかわらず、実質的には政党の支部長と異ならない観を呈するに至つたという。
 このことから、閉鎖的な任用法規によつて任用されたいわゆる有資格者の内部に、党派的迎合と対立とが生じたことが推察される。しかしこのような状態になつても、勅任、奏任、判任、雇傭人の厳然たる身分的差別を基礎として、天皇の任免大権の下に服属する官吏制度が変化させられたわけではなく、そのままの形で政党に利用されたに過ぎないのであつた。したがつて、対内部的には忠実無定量の服従、対外部的には天皇主権の行使者としての官吏のあり方が、政党勢力の進出によつて格別に民主化されるということもなかつたのである。
 なお、大正13年8月、加藤内閣の時に各省次官と勅任参事官とを自由任用の範囲から落し、代りに設けた政務次官と参与官とをこれに加えた。政府は政務次官と参与官とを衆議院議員の中から任命し、以後の政府もこれにならつた。貴族院議員が数名これに加わることもあつた。(同号15頁)


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514. 文官任用制度の歴史 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第95号(昭和34年1月発行)及び第96号(同年2月発行)には、「文官任用制度の歴史Ⅰ・Ⅱ」が掲載されている。執筆者は、任用局企画課の和田善一。

 まず、Ⅰの冒頭で記述の意図を述べる。

 まえがき:明治時代から昭和にかけて旧官吏制度のもとでは、文官の任用の基本をなす法規として長く文官任用令が施行されており、その前後にそれぞれ文官試験試補及見習規則と文官任用叙級令が施行された時代があつた。本稿ではこれらの法規の制定改廃の事情を国家公務員法施行前まで追つてみたいと思う。任用令の制定やその大きな改正が行われた場合には、それを促した社会的背景が常に法規の背後に存在している。また、いつたん制度の改変が企てられていながら種々の事情によつて所期の目的どおりに実現しないこともあつた。これらの点を含めて簡単に述べてみるつもりである。(第95号10頁)

 まえがきに続いて「1 文官任用制度の創設」について述べる。

(1) 規則制定前の情実任用
 明治18年12月22日太政官制度にかわつて内閣制度が成立したが、4日後の12月26日初代の内閣総理大臣伊藤博文は「各省事務ヲ整理スルノ綱領」を各省大臣に示達した。この綱領の中で試験による官吏任用の制度を樹立する必要が宣言されている。これがわが国で官吏の任用制度の創設を公に日程にのせたそもそもの始めであつた。(同頁)

 情実任用の弊害については、一つには、明治維新で指導的役割を果たした薩長2藩の出身者やこれらの勢力とつながる者が政府の要職に任用される比重が圧倒的となっていたこと。もう一つは、反政府的な自由民権運動の切り崩しのため、その指導的分子に官職を与えることもかなり行われたことが紹介されている。
 そして、「情実任用の勢を助けたのは、任用に対する法的規制が存在しなかつたことのほかに、官の定員の制度が設けられていなかつたこともまた一因であつた」と説明する。
 当時の乱れた状況を谷干城の意見書を引用することで紹介している。

 時の農商務大臣谷干城は明治20年に内閣に提出した意見書の中でその点を痛烈な口調で次のように述べている。
 「而ルニ其ノ後(注、各省官制制定後のこと。)僅々一年ナラザルニ漸ク破壊シ百度皆改革以前ニ復帰スルノ実ヲ呈シ、………蓋シ其ノ因テ来ル処ヲ推究スレハ情実ノ牽連ヨリスルノ弊害ニ非サルハナシ、………蓋シ方今行政ノ状タル必要ノ事業アルカ為ニ官ヲ設ケ官ヲ設ケタルカ為ニ人ヲ用フルニアラス、却テ人ノ為ニ官ヲ設ケ官ノ為ニ事業ヲ設クルノ風アリ。大本ヲ転倒スル亦甚シト云フヘシ。之ノ故ニ有効者ヲ賞スルニ官ヲ以テシ、旧友ヲ憐ムニ官ヲ以テシ、私徳ニ報スルニ官ヲ以テシ、朋党ヲ造ルニ官ヲ以テシ、遊楽ヲ求ムルニ官ヲ以テシ、甚キニ至テハ在野有志ノ口ヲ○制(けんせい)スルニ亦官ヲ以テスルモノアリ。而シテ無用ノ官吏終日不要不急ノ事務ニ従事シ、徒ラニ繁雑ノ弊ヲ増シ、却テ要務ヲ遅滞スルコト月ニ愈甚シ。(同号11頁)

かくして遂に明治20年7月23日、文官試験試補及見習規則(勅37)が公布され、翌年1月から施行されることとなった。
 当初の高等試験と帝国大学卒業生の無試験任用などの説明が述べられた後、次のようにまとめている。

 以上のようにしてわが国最初の官吏の任用制度は、勅任の行政官(当時は次官および局長の一部等)の任用が自由である点を除いては、一応の形を整えた。このようにして任用された行政官は、当時の政府の考え方によれば、政党の勢力から絶縁して、人民が向う方向を誤らないように指導し統治すべきものとされたのである。すなわち、憲法発布の翌日内閣総理大臣黒田清隆は地方長官集会席上において「………憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非ざるは勿論なり。唯だ施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投じて団結をなし所謂政党なる者の社会に存立するは亦情勢の免れざる所なり。然れども政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざるべからず。各員宜しく意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭宜しきを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むべきなり。………」と演説し、また、黒田の次の総理大臣山県有朋も明治22年12月25日各府県知事への訓示中で「………今茲に最も注意を要する所の者は此時に当り各位は宜しく屹然として中流の砥柱(しちゆう)たるべきのみならず、亦宜しく人民のために適当の標準を示し、其偏頗を抑へ向う所を謬らざらしむることを勉めざるべからず。要するに行政権は至尊の大権bなり、其執行の任に当る者は宜しく各種政党の外に立ち引援附比の習を去り、専ら公正の方向を取り以て職任の重に対うべきなり。………」と述べている。現在は公務員が国民全体の奉仕者となるために、その政治的中立が要求されるのに対し、当時のそれは全く異つた考え方の上に立つものであつた。(同号13頁)

 この後、「Ⅱ 任用制度の再編成」と題して、文官試験試補及見習規則に代わって文官任用令が制定されるに至った背景には、帝国議会における政府と野党との激烈な抗争があり、天皇の詔勅により定員3,272人、俸給庁費その他の行政費節減170万円に及ぶ行政整理が行われたことがあったことが紹介されていく。

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513. 鵜飼信成=人事院月報第94号(続き) [49.「人事院月報」拾い読み]

 鵜飼信成の「民主的行政の条件」の後半を掲載する。

  国家公務員法案の批判

 このような批判の根拠としては、およそ次のようなことが考えられよう。まず第一に、この批判は、従来、人事行政の基本を掌握していた内閣の権限に対する評価から出発する。そうして内閣の手から、人事行政の基準設定権を切りはなすことによつて、人事行政の基礎にある一切の派閥的な関係を清算しようとするものである。そのような方式は、一応は、内閣から多かれ少かれ独立した地位をもつ人事行政機関の設置によつて、実現せられるであろう。
 しかしながら、この批判は、これだけをもつては満足しなかつた。それは第二の要素として、新たに独立性を与えられた人事行政機関に対する、別個の民主的コントロールの必要性を主張する。なるほど、内閣から独立した人事行政機関の設置が、内閣による人事行政権の独占に対する重要な改革の意味をもつことは、疑をいれない。けれども、この場合注意しなければならないことは、このようなアメリカ的ないわゆる科学的人事行政が、日本の政治的社会的条件の下でそのままの形で通用することはむずかしい、ということである。いいかえれば、問題は、外国で、一定の時期に、一定の条件の下で、十分な意味をもち、重要なものとして発展した制度が、それとは歴史的条件が異なり、したがつて当面の目標も異なる他の国の制度改革の方式として、無条件で移入されるということの困難さを、どのように理解するかということにある。
 もしこの点について正しい認識が得られるとするなら、少なくとも、戦後日本の制度改革の基本的視覚として、制度の民主化ということのもつている第一義的な重要性が把握されなければならない。そうしてもしそのことが明らかにされるなら、ひとり、新しい人事行政機関の内閣からの独立性だけでなく、それの新しい意味での民主化、したがつて民主的統制方式の設定の重要さが、理解されなければならないであろう。それについてどのような方法をとるにせよ、それが結局において、ある意味において、人事委員会の地位権限の弱化に終ることは自然でなければならない。
 国家公務員法案の上記のような批判者は、この立場から、たとえば、次のような改正を主張した。第一に、人事官は、内閣が両院の同意を得て任命するというのを改めて、国会の指名によつて内閣が任命するものとすること、第二にまた、人事官のうち1名は、とくに公務員全体の中から、その直接秘密選挙によつてえらぶものとし、他の2名は公務員以外のものでなければならないが、その資格要件として掲げられた政党役員でないことなどの点は、これを排除するものとすること、そうして第三に、人事官に対する弾劾の訴追が、原案では内閣総理大臣の権限に留保されているのを、国会の議決がある場合には、内閣総理大臣は、これに基づいて訴追を行わなければならないものとすること、などがそれであつた。
 とくに、原案にない新しい機関として、人事管理委員会の設置を要求したことが注目される。この機関は、委員9名から成り、うち1名は少なくとも婦人とする。委員は、国会議員2名、公務員労働組合代表1名、総理大臣の指名する公務員1名、各界代表5名で、人事行政機関の協力機関として、そこに民意を反映するのに有力な役割を果たすことが期待された。たとえば、人事院規則を制定する場合には、人事院は、この機関の議に付したのち、内閣総理大臣の承認を経なればならない。もし両者の意見が一致しないときは、内閣総理大臣が国会に報告し、その決定にまつものとする、というような制度が要求されるのである。それは、一方では、内閣から独立した人事行政機関を設けることの重要性を認めながら、他方同時に、そのよな独立の機関が、独立であることによつて、かつての統帥権の独立のように、国民の意思をはなれて、勝手な方向に動いて行かないためであつた。

  人事院の意義

 この二つの方向、すなわち同じようにフーバー案を修正し、同じように、人事院の地位権限を弱めようとする、上述の政府案と民間案の間には、実は本質的な差異がある。そして、その外見的な類似にもかかわらず、実はこの本質的な差異の方が重要である。
 政府案は、いわば、内閣と枢密院が全権をにぎつていた旧官僚制への郷愁にねざした思想であつて、したがつて、新しい科学的人事行政の方式、とくに内閣から多かれ少かれ独立した人事行政機関としての人事院の制度に対して懐疑的なのである。人事院の地位権限の弱化はすべてこの見地から企図されたものである。
 これに反して、民間案は、もともと、人事行政に関する内閣の権限について懐疑的なのである。したがつて、基本的には、内閣から独立した機関としての独立の委員会制度については、強い共感を示している。
 ただその独立性は、内閣からの独立性にしか過ぎないので、その外の機関に対しては、ある意味で従属性をもつていることを要求するのである。たとえば、国会との関係でいえば、従来の制度では枢密院の議を経て、勅令の形式で制定せられていた人事行政の基準をなす規範が、新しい制度では、国会の制定する法律でなければならないこととなつたばかりでなく、人事院自身の制定する人事院規則の範囲までも制限して、重要な事項-たとえば職階制、試験、勤務条件等がすべて法律によることを、公務員法自身が明記するとか、人事官の罷免は、基本的には、公開の弾劾手続によつて最高裁判所において行われるものとし、この訴追は、一に国会の権限とすることなどである。その外に、民意によるコントロールの方式として、人事管理委員会の設置が要求されていることは、上に述べた。
 こうしてみると、日本官僚制の近代化のためには、実は、人事院制度の確立、多かれ少かれ内閣から独立し、内閣の掌理する人事行政事務の一般的基礎を確立する機能をおびた、新しい型の人事行政機関の存在こそ、必要不可欠なものであるといわなければならぬ。そうして、そのような人事行政機関として現に与えられている人事院は、旧憲法下におけるような統一的人事行政機構への復帰の要求にもかかわらず、民主的行政の存立の最後の条件として、必ず考慮されなければならぬものではなかろうか。
 (東京大学社会科学研究所教授)


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512. 鵜飼信成=人事院月報第94号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報第94号(1958年12月発行)には、鵜飼信成が巻頭文を寄せている。鵜飼信成の専門は、憲法、行政法。岩波文庫の『市民政府論』は鵜飼の翻訳。

 民主的行政の条件

  はじがき

 戦後日本の行政改革の中心課題が、官僚制の改革におかれるべきであつたことは、明治以来の日本の行政の性格が、ひとえに日本官僚制の性格によつて規定されていたことからいつて当然であつた。
 行政の改革そのものは、行政組織の面にも、行政作用の面にも、多くの問題をもつており、それらのもろもろの面について適正な改革の方向を発見することが重要な課題であることは不定できないけれども、しかし何よりも根本的な問題は、このような組織を現実に動かし、行政の作用を現実に行つていく人々、すなわち官吏が、一般に官僚意識の名で呼ばれるような意識形成の下に、官僚制と呼ばれるような特有の存在をもつていたという事実で、これをいかに改革するかを考えないでは、行政の民主化はありえないといつてもよかつたのである。
 このことは、戦後の日本の新しい方向づけを指摘すべき地位にあつた連合国軍総司令部の明確に意識していたところである。たとえば、総司令部民政局の報告である「日本政治の新しい方向づけ」(Political Reorientation of Japan,September 1945 to September 1948,Report of Government Section,Supreme Commander for the Allied Powers,1948)によると、「占領の始まる前から、西欧の学者だけでなく、日本の学者によつても、日本官僚制が、国民生活の全体主義的規制のための、主要な道具であることが認められていた」のである。けれども、この方式には、一つの困難な問題点ががある。それは、連合国軍の占領管理が、いわゆる間接管理の方式、すなわち日本の既存の官僚機構を通じてのみ、占領統治を行うという方式を、採用することに決したからである。
 ところでもしもこのように、「占領目的を達成するために、既存の日本政府の機構を利用するということに決まると、それは必然的に、次のような冒険を伴なうといわなければならない。その冒険とは、イデオロギー的に、占領政策に反対の官僚が、行政的なサボタージュによつて、占領政策にはそれを遂行するためおのずから展開される日本の政治指導者のプログラムを無にしてしまうことである」(前掲246頁)。そうしておそらくこのようなサボタージュの中で最も根本的なものは、日本官僚制の改革そのものをサボタージュすることでなければならない。もしこのような事情によつて、行政改革が停滞するようなことになれば、一切の行政改革が、その目的を達しえないことになるであろう。
 科学的人事管理という近代的な原理を、日本の人事行政にとり入れるということがら自体が戦後日本の当面した社会的政治的諸条件の中で、決して単純自明なことでないばかりでなく、その実現の方式がきわめて困難な状況の下におかれていたことが、これでよくわかるのである。
 以下、国家公務員法の制定過程の分析を通じて、この点がどのように展開されたかを具体的に明らかにしてみることにしよう。

  国家公務員法の制定

 国家公務員法の制定が、連合国総司令部占領政策の重要な焦点をなすものであつたことは、上に述べたとおりであるが、それが科学的人事行政の方向を目指すものとすれば、当然そこに人事委員会制度の設置が要求されることは、明らかでなければならない。このことを明確に洞察したものは、昭和22年のはじめに、当時の行政調査部公務員部長、現在の人事院総裁浅井清博士が「ニッポンタイムズ」に公表した一文であつた。
 アメリカ公務員制度顧問団のフーバー氏は、当初からその方向であつたものと想像される。昭和22年6月11日、フーバー顧問団が片山内閣総理大臣に国家公務員法の草案を提示したとき、その内容として示されたものが5点あるが、その第四に「民主的諸国家の近代的人事委員会の長所をとり、さらに進展させた、全国的中央人事行政機関を確立し、その組織・職務・権限・財政・設備につき規定し、またこの機関の永続性を規定した」と述べられている。表現自体はきわめて控え目であるが、そこに公務員制度改革の眼目があつたことは、この人事委委員会制度をめぐつての攻防が、その後の国家公務員法制定の過程における焦点の大きな一点をなしていたことに示されている。
 政府は、同年8月30日の第1国会に、このフーバー案に基づく国家公務員法案を提出したが、その中で、フーバー案はかなりの程度まで修正をうけていた。修正された点は種々あるが、とくに興味をひくのは、上に述べたフーバー構想に基づく人事院の地位が、かなり弱められたことである。すなわち、その権限の特色をなしていた(a)独立の規則制定権は、内閣総理大臣の承認を経て制定することに改められ、(b)その決定処分は、裁判所による審査を受けない、という規定は削除され、(c)その予算は、自ら作成し、原則として内閣によつて修正されない、という規定も削除された。
 ではいったいフーバー案は、何故に、このような修正をこうむつたのであろうか。いいかえれば、法案作成の任に当つた日本政府は、何故に、人事院の地位を弱めるような修正を加えたのであろうか。その理由を明らかにすることは、かならすしも容易ではない。けれども」上に挙げた総司令部報告書の述べているような考察の入る余地が十分にあることは否定できないであろう。
 そしてもしそれが正しいとすれば、人事院の地位を弱めることによつて、人事行政の改革が効果的に行われることを阻止しようとする意思が、明示的にか、暗黙のうちにか、そこに示されていることは見逃すことのできない事実である。
 しかしこの場合、政府の示した方向と、外見的に同じ方向をとろうとする論者が、別の方面にいたことを忘れてはならない。それは民間の公務員制度改革論者である。これらの改革論者(たとえば公法研究会。その意見は当時「法律時報」および東大の「大学新聞」に発表された)は、これとは全く違つた立場から、全く違つた意図をもつて、政府の国家公務員法案を批判した。そうしてその批判は、その背後にあるフーバー構想にも及び、人事院の地位に関する法案の規定に対しても、フーバー案に対しても、同じ批判を加えたのである。批判の結論は、人事院の地位権限を、政府案におけるよりもさらに一層弱体化しようということであつた。
 では、これら民間の批判者たちの、批判の意図と根拠とは、いつたいどこにあつたのであろうか。
(続く)


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511. 藻利重隆=人事院月報第87号(続き) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に引き続き、藻利重隆「テイラアの精神革命論と人間関係論」(人事院月報1958年5月号)。

 ・・4・・
 われわれは、科学的管理の本質をなすものとして提唱せられる精神革命論の意義を、その広狭いずれの意味においても、否定せざるをえないこととなつた。それではテイラアの精神革命論はなんらの意味をももちえないものであろか。けつしてそうではない。けだし、テイラアが精神革命の内容として意識的に陳述するとことは広狭二種の精神革命につくされているようである。また、その重要性の提唱も意識的にはこれを科学的管理の本質と解することにつくされているようである。ところが、このような陳述によつてテイラアがつくしえなかつた真意は、かえつて別のところにあるように思われる。そして、われわれはこれを、科学的管理の導入を容易にし、またそれを成功させるための必要条件をなすものだと解することにもとめることが出来る。つまり、科学的管理の導入体制を労資双方について形成するところに、テイラアの主張する「精神革命」の真意があつたものと解するわけである。科学的管理の導入には相当の期間を必要とするのであつて、短期間のうちにこれを実現するときは、成功はおぼつかない、とするテイラアの主張の意味をわれわれは正しく理解しなければならない。それは、管理制度の「変更」(change)に関して「変更の速度」(rate of change)の問題を取りあげ、「精神革命」とよばれる精神的な導入態勢の形成について配慮することの必要を説くとともに、そのために要する時期に留意するべきことを強調しているわけである。テイラアは科学的管理が労働者のあらゆる反対にもかかわらず進展するべき歴史的必然性をもつことをのべているのであるが、しかしこのことは、労働者の反対を緩和し、これを克服するための努力が無用であることを意味しないのみならず、かえつて、科学的管理の円滑な導入をはかるために、こうした努力が必要であることを意味しているものと解しなければならない。そして、これに答えようとするものこそが、まさにテイラアのいわゆる「精神革命」の真意をなすのであり、したがつて、精神革命は科学的管理の導入に対する促進条件をなすものと解せざるをえないのである。ところが、このような促進条件の整備は、ひとり科学的管理の導入に関してのみ要請せられるものではなくて、あらゆる「変更」の導入に関して要請せられる。テイラアの言をもつてすれば「・・科学的管理導入の歴史のみならず、労働節約機械導入の歴史もまた、どのような産業においても急激な変更をなすことは不可能であることを示している」のである。ところで、こうした問題こそは昨今いわゆる「人間関係論」の名において論ぜられている問題であることを注意しなければならない。けだし、人間関係論ないし人間関係論的人事管理こそは、「変更」の導入に際して配慮せられるべき「変更の速度」の問題をその中心問題として取りあげるものだからである。ところで、この「変更の速度」を規定するものをテイラアは「精神」ないし「精神的態度」の変更に要する時間にもとめているのであるが、人間関係論はこれを「心情」ないし「行動の型」の変更に要する時間にもとめているのである。
 ただ、人間関係論的人事管理がこれまで労働者の心情の問題を中心的に取りあげて、管理者の心情の問題を等閑に付し、これをほとんど取りあげていないのに反して、テイラアの精神革命論においては、管理者の問題がとくに重視せられていることは、これを看過しえないであろう。テイラアによれば、改善その他の変更の導入に関して発現する紛争の十分の九は管理者側から発生し、わずかに十分の一が労働者側から発生するにすぎない。すなわち管理者の側における「精神革命」の完成が、科学的管理の導入その他の改善にとつてきわめて重要であることを提唱するのがテイラアにほかならない。管理者ないし経営者の「頭の切替え」の必要が強調せられ、経営者教育の緊要性が論ぜられている今日、テイラアの精神革命論の意義はけつして軽視せられえないであろう。

 ・・5・・
 「テイラア証言」におけるテイラアの陳述は、必ずしも一貫性を有しないのみならず、さらにそこには多くの矛盾が見出される。そこに強調せられる「精神革命」ももとよりこの例外をなすものではない。それが「労資協調主義の完成」として理解せられるかぎり、精神革命は科学的管理とは無関係であり、またそれが抽象的な「科学主義の完成」のみを意味するならば、それは科学的管理の前提条件とはなりえても科学的管理の本質を形成することにはならない。けれどもこのことはテイラアにおける精神革命論が無意味であることを意味しない。けだし、テイラアの精神革命論には「変更」の導入に関してその精神的受入態勢を形成することとしての別の意義が見出されるのであるが、ここにこそわれわれは、今日の人間関係論が取りあげている「変更の速度」の克服に関する先駆的問題提起を見出すことが出来るからである。それはひとり科学的管理のみならず、あらゆる能率増進上の諸方策の実施に関して、これを円滑化し、さらに効果的なものにするための人間的条件の形成を問題とするものにほかならない。われわれは「精神革命論」の名において今日の人間関係論的問題点を看破し、高唱したテイラアの卓見に深く経緯を表せざるをえないのである。

 著者《もうり しげたか》一橋大学教授 経営学専攻

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510. 藻利重隆=人事院月報第87号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報の1958年5月号(第87号)は、巻頭に藻利重隆の論評を掲載している。藻利重隆は、労務管理が専門の経営学者で一橋大学名誉教授。

 テイラアの精神革命論と人間関係論

 ・・1・・
 アメリカにおいて「科学的管理」が広く一般の関心をあつめるようになつたのは1910年のいわゆる「東武鉄道運賃事件」(the Eastern Railway Rate Case)以後のことであるが、こうした事態は労働組合の科学的管理に対する懐疑的態度を刺激することとなり、1911年には、ついに労働組合の科学的管理排撃運動の展開を見るようになる。そして、それはやがてアメリカ議会の黙視しえないものとなり、1911年8月にはこれに対処するための特別委員会が議会に設置せられた。「テイラア・システムおよびその他の工場管理制度の調査に関する下院特別委員会」(the Special Committee of the House of Representatives to Investigate the Taylor and Other Systems of Shop Management)がすなわちそれである。この委員会の調査が「テイラア・システム」ないし「科学的管理」を対象とするものであつたことはいうまでもないが、そのために1912年の1月25日、26日、27日および30日の4日間にわたつてテイラア(F.W.Taylor,1856-1915)自身がその聴聞会に召喚せられている。テイラアはそこで彼の提唱する「科学的管理」がどのような性質のものであるかについて証言をもとめられたわけである。この聴聞会におけるテイラアの証言の内容は後に「テイラア証言」(Taylor's Testimony Before the Special House Committee)として公刊せられているのであるが、この証言においてテイラアが、科学的管理にとつてもつとも重要なものとして提唱しているものこそは、「精神革命」(Mental revolution)にほかならない。そこでわれわれはこのテイラアの精神革命論の意味するところを「テイラア証言」にもとづいて検討してきることとしたいのである。

 ・・2・・
 「テイラア証言」におけるテイラアの主張の中心が「精神革命」に見出されることは、否定しえない事実をなすのであるが、しかも、その意味するところは必ずしも明確ではない。テイラアの陳述はきわめて曖昧であるのみならず、さらに、しばしば矛盾するものを含んでいるのである。テイラアの精神革命論を究明するためにはわれわれは第一に精神革命の内容を問題としなければならない。と同時にわれわれはさらに第二にこの精神革命と科学的管理との関係を明らかにしなければならないのである。まず第一の問題から考察していくこととしよう。
 テイラアが精神革命の内容として陳述しているものは必ずしも一貫していない。これにはまず二様の見解が区別せられなければならない。その第一は労使双方の側における精神的態度が労使敵対主義から労使協調主義へと変革せられることを精神革命であると解するものである。これに対して、第二の見解は、労使双方の精神的態度について二つの変革が完成せられるところに精神革命の成立を理解する。そして、ここにいう二つの変革とは労使敵対主義より労使協調主義への精神的態度の変革と、伝習主義より科学主義への精神的態度の変革との二つを指すのである。われわれはここでは第一の見解を「狭義の精神革命」とよび、これに対して第二の見解を「広義の精神革命」とよぶこととしよう。精神革命の意味に関してテイラアが意識的に展開するものは、この二種の見解につくされているようである。
 ところで、テイラアはこのような精神革命が科学的管理にとつてもつとも重要なものであることを主張するのであるが、その意味するところは、精神革命が科学的管理の本質(essence)をなすということにある。それでは精神革命が科学的管理の本質をなすということは、そもそもどういうことを意味するのであろうか。けだし、このことに関するテイラアの陳述ほど思想的混乱を来たしているものはないように思われる。そこには諸種の見解がのべられている。第一には精神革命の達成を目的とするところに科学的管理の本質的意義があるとする見解がみうけられる。そしてこの場合の精神革命は狭義のそれであることを注意しておかなければならない。テイラアは科学的管理の「機構」とその「本質」とを区別する。科学的管理そのものはテイラアにおいては「善」としての「本質」を備えているものと解せられているのであるが、科学的管理の「機構」は「善」のためにも「悪」のためにも使用せられうるエンジンであつて、こうした「機構」のうちには「善」としての科学的管理の本質は把握せられえないと解するのがテイラアである。そして、ここにいわゆる「善」が労使の共栄であることはいうまでもない。つまり、科学的管理の本質はその目的としての精神革命と、したがつて労使協調主義の実現による労使の共栄にあるのであつて、そのための手段としての管理の機構のうちにはこれを見出すことは出来ないと解するわけである。ところが、この解釈をとるときは、科学主義の実現は科学的管理の本質とは無関係となり、科学的管理は無内容な労使協調主義の実現という抽象的な精神革命論なりおわらざるをえない。けだし、科学主義の実現は、科学的管理の「本質」から区別せられたその「機構」に関して要請せられているものであり、テイラアのいわゆるエンジンに関して問題となるものにほかならないからである。そして、テイラアが「科学的管理の諸原則」として論述するところもまた科学的管理の本質とは無関係なものとならざるをえないであろう。

 ・・3・・
 精神革命が科学的管理の本質をなすということの意味に関するテイラアの第二の見解は、精神革命の完成を前提条件としてはじめて実施することの出来るものが科学的管理であるとする解釈に見出される。そして、この場合の精神革命は広義のそれであることを注意しておかなければならない。テイラアはある会社に科学的管理が実施せられているかどうかを判定するためには、第一に広義の精神革命が労使双方の側に成立しているかどうかを判定しなければならないということをのべているのであるが、その意味するところは、まさに広義の精神革命が科学的管理の実施に必要とせられる前提条件をなすことにあるものと解せざるをえないであろう。だが、もしも精神革命の完成がたんに科学的管理を実施するための前提条件をなすにすぎないとするならば、これを前提として実施せられる科学的管理そのものの本質は、精神革命のほかに別個に見出されなければならないこととなるはずである。科学的管理のための前提条件をなすことのゆえに精神革命は科学的管理の本質をなすという主張は、理論的には困難であると解せざるをえないわけである。
 ところが、テイラアは他方において科学的管理に関して、あたかも産業革命の初期において機械破壊運動による労働者の強烈な抵抗があったにもかかわらず機械生産が発展して来たのと同様に、科学的管理もまた歴史的必然性をもつて発展するものであることを強調する。つまり、科学的管理は労働者のあらゆる反対にもかかわらず進展するべき必然性をもつ労働節約策の一つであると解せられているのである。したがつて、科学的管理はけつして労使協調主義の完成ないし狭義の精神革命の成立をその必然的な前提条件とするものではないのみならず、さらにそれはこうした精神革命の完成をその目的とするものでもなくて、まさに労働節約策の一種として実施せられるものであることが強調せられているわけである。
 けだし、科学的管理が無内容な精神革命論に堕することを回避するためには、狭義の精神革命を目的とするということのうちに科学的管理の本質をもとめることは出来ないであろう。また、たとえ広義の精神革命が科学的管理の前提条件をなすということが承認せられうるとしても、こうした前提条件のうちに科学的管理の本質をもとめることはついに不可能であろう。このようにしてわれわれは、精神革命をもつて科学的管理の本質だとするテイラアの主張はついにこれを承認しえないこととなる。「科学的管理の機構」と「科学的管理の本質」とを区別することは必要であろう。そのかぎりにおいてはわれわれはテイラアの主張を肯定することが出来る。だが、科学的管理の本質は、テイラアの主張するように、その機構とは無関係なものだと解するわけにはゆかない。われわれはかえつて科学的管理の機構の全体を貫き、これを支えるものとして、機構のうちに内在する統一的原理をこそ、科学的管理の本質として把握しなければならない。そうだとすれば、科学的管理が労働節約策の一種をなすものであるということはついにこれを否定しえないのである。労働節約策としての科学的管理の機構をはなれて、これとは無関係に科学的管理の本質を求めようとするテイラアの見解は、ついに承認することが出来ないわけである。
(続く)


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509. 東京都の非常勤講師の報酬 [47.「コマ給」をどう捉えるか]

 「「コマ給」をどう捉えるか」のテーマで、ずいぶん前に東京都の非常勤講師の報酬単価が経験年数別に示されていることを取り上げた。(406.「コマ給」をどう捉えるか(続き))
 最近になって、久しぶりに『自治体の新臨時・非常勤職員の身分取扱』(地方公務員任用制度研究会編著、学陽書房、2001年)を見ていると、東京都の非常勤講師の報酬に関する記述が掲載されていることに気がついた。手元にあるのが2001年版なので、最新版は確認していないが…。抜粋しておきたい。

ウ 都立学校等に勤務する非常勤講師
  都立学校及び区市町村立学校に勤務する非常勤講師には、基礎報酬(正規任用の通常勤務職員の給料に相当する第1種基礎報酬と通勤手当に相当する第2種基礎報酬)が、非常勤講師のうち、一定の要件を満たした準常勤講師には、基礎報酬の外に、付加報酬(期末手当・勤勉手当に相当する報酬)が支給される。第2種基礎報酬と付加報酬については、諸手当の項で取り上げることとし、ここでは、第1種基礎報酬について述べる。
 基礎報酬については、「都立学校等に勤務する講師の報酬等に関する条例」で、「時間を単位とし、その額は、非常勤職員の報酬及び費用弁償に関する条例第2条に定める額を超えない範囲内において定めるものとする。」と規定し、報酬の額、支給方法等については、教育委員会規則に委ねている。条例で定める報酬額の上限は、教育業務に従事する者の月額を502,000円としている。
 具体的な額については、経験年数に応じた1時間当たりの報酬額を決定し(次頁の表)、この単価を基礎に、1週間当たりの勤務すべき時間数から算出することとしている。
 すなわち、
 報酬額=1時間当たりの報酬額×1週間当たりの勤務すべき時間数×52週÷12月-1時間当たりの報酬額×土曜日1日当たりの勤務すべき勤務時間数×2)
という式によって算定される。
 1時間当たりの報酬額は、従来、正規教員の給料を基準とした方式(正規教員に適用される級別資格基準により経験年数に応じて決定される級号給に相当する額を基礎に、調整手当、割増率を考慮に入れて算定)であったが、平成4年4月1日から、人事委員会の平均給与改定率によるとともに、改定された報酬額は、正規教員の給与改定時まで遡及して適用される方式に改められた。
 平成12年度現在、経験年数を13区分とし、それぞれの区分に応じた単価を表(上図)のとおりとしている。

 平成12年度 都立学校等に勤務する講師の1時間当たりの報酬額
(小・中・高・盲・ろう・養護学校に勤務する講師(通信制を除く)の場合)
 経験区分 経験年数等    時間額
  1   1年未満     1,990円
  2   1年以上2年未満 2,060円
  3   2年以上3年未満 2,140円
  4   3年以上4年未満 2,220円
  5   4年以上5年未満 2,290円
  6   5年以上6年未満 2,360円
  7   6年以上7年未満 2,440円
  8   7年以上8年未満 2,530円
  9   8年以上9年未満 2,620円
  10   9年以上10年未満 2,720円
  11   10年以上11年未満 2,810円
  12   11年以上12年未満 2,930円
  13   12年以上     3,020円  (185~186頁)


 昔は正規教員の給料を基準に算定されていた、つまり均衡処遇の考え方を採用した上で割増率が導入されていたようだが、平成4年以降その考え方が崩れたと書かれている。
 さて、令和2年4月から会計年度任用職員制度が導入されたが、どうなっているのであろうか。平成元年に改正された改正後の条例・規則を確認する。

<改正前>
○都立学校等に勤務する講師の報酬等に関する条例<改正前>
(報酬の額等)
第六条 時間講師には、基礎報酬を支給する。
2 準常勤講師には、前項の基礎報酬のほか、付加報酬を支給する。
3 前二項に規定する基礎報酬及び付加報酬は、第四条第一項に規定する勤務時間を基準とし、次の各号に定めるところによる。
一 基礎報酬 時間を単位とし、その額は、非常勤職員の報酬及び費用弁償に関する条例(昭和三十一年東京都条例第五十六号)第二条に定める額を超えない範囲内において定めるものとする。
二 付加報酬 学校職員の給与に関する条例(昭和三十一年東京都条例第六十八号)第二十四条及び第二十四条の二の規定に準じて定めるものとする。
4 前項に規定する報酬の支給額、支給方法その他必要な事項は、教育委員会規則で定める。

○非常勤職員の報酬及び費用弁償に関する条例<改正前>
(報酬の額)
第二条 職員に対する報酬の額は、日額、月額又は時間額で定めるものとし、別表一に定める職員の種別に対応する額をこえない範囲内において、別表二に定める勤務態様に対応した支給単位により、任命権者が定めるものとする。ただし、(略)
別表一(第二条関係)
 職員の種別\額の種別 日額(円)   月額(円)    時間額(円)
 教育業務に従事する者 二三、八〇〇 四七八、〇〇〇 八、一〇〇


<改正後>
○都立学校等に勤務する講師の報酬等に関する条例(昭和四九年条例第三〇号)
(勤務時間等)
第四条 時間講師の勤務時間は、次に掲げる時間とする。
 一 教科の授業に要する時間
 二 東京都教育委員会(以下「教育委員会」という。)が定める授業の実施に付随する業務に要する時間
 三 教育委員会が定める基準により研修の命令を受けた時間
2 勤務時間の割振りについては、東京都人事委員会(以下「人事委員会」という。)の承認を得て東京都教育委員会規則(以下「教育委員会規則」という。)で定める。
  (平一九条例一三四・平三〇条例一二三・令元条例三六・一部改正)
(報酬の額等)
第六条 時間講師には、時間を単位とし、非常勤職員の報酬、費用弁償及び期末手当に関する条例(昭和三十一年東京都条例第五十六号)第二条に定める額を超えない範囲内において、人事委員会の承認を得て教育委員会規則で定める額の報酬を支給する。
2 前項に規定するもののほか、報酬の支給方法その他必要な事項は、人事委員会の承認を得て教育委員会規則で定める。
  (平一九条例一三四・令元条例三六・一部改正)

○非常勤職員の報酬、費用弁償及び期末手当に関する条例(昭和三一年条例第五六号)
〔非常勤職員の報酬及び費用弁償に関する条例〕を公布する。
(報酬の額)
第二条 職員に対する報酬の額は、日額、月額又は時間額で定めるものとし、別表一に定める職員の種別に対応する額をこえない範囲内において、別表二に定める勤務態様に対応した支給単位により、任命権者が定めるものとする。ただし、月額で定める場合には、任命権者は、あらかじめ知事に協議するものとする。
2 前項の規定にかかわらず、職務の性質上これによりがたい職にある者の報酬の額は、任命権者があらかじめ知事と協議して定める額とする。
3 前二項により報酬の額を定める場合には、職員の職務の複雑性、困難性、特殊性及び責任の軽重に応じ、かつ、常勤職員の給与との権衡を考慮してしなければならない。
4 前三項に規定するもののほか、報酬の額に関し必要な事項は、東京都規則で定める。この場合において、法第二十二条の二第一項第一号に掲げる職員(以下「会計年度任用職員」という。)に関する事項を定めるときは、人事委員会の承認を得るものとする。
(昭四八条例一六・全改、平二六条例一四一・平三〇条例一〇七・一部改正)
別表一(第二条関係)
 職員の種別\額の種別 日額(円)   月額(円)    時間額(円)
 教育業務に従事する者 二三、八〇〇 四七八、〇〇〇 八、一〇〇

○都立学校等に勤務する時間講師に関する規則(昭和四九年教育委員会規則第二四号)
(勤務時間)
第十四条 条例第四条第一項の勤務時間は、一週間を単位として二十六時間を超えない範囲内で定める。
2 前項の規定にかかわらず、教育委員会が特に必要と認める場合は、前項に規定する勤務時間を越えて勤務時間を定めることができる。
3 第一項に規定する時間講師の勤務時間の一単位時間は、六十分とする。
  (平一九教委規則五九・令元教委規則一〇・一部改正)
(報酬)
第二十二条 条例第六条に規定する報酬は次のとおりとする。
 一 第一種報酬 時間講師の教育職員としての識見及び経験等を基準として、別表第三に定める区分による額
 二 第二種報酬 学校職員の給与に関する条例(昭和三十一年東京都条例第六十八号。以下「給与条例」という。)第十四条に規定する通勤手当に相当する額であつて、時間講師の通勤の実情等を勘案して、同条の例により算出した額
2 前項第一号に掲げる別表第三に定める区分による額は、常勤職員の給与との権衡を考慮し、前年度の時間額を基準として、各年度の四月一日に見直すものとする。
  (令元教委規則一〇・全改)
別表第三(第二十二条関係)
  (令元教委規則一〇・全改)
 教育職員としての経験年数等  時間額(円) 
 経験区分 経験年数
  一   一年未満        一、八八〇
  二   一年以上二年未満    一、九五〇
  三   二年以上三年未満    二、〇二〇
  四   三年以上四年未満    二、〇九〇
  五   四年以上五年未満    二、一六〇
  六   五年以上六年未満    二、二三〇
  七   六年以上七年未満    二、三一〇
  八   七年以上八年未満    二、四〇〇
  九   八年以上九年未満    二、四九〇
  十   九年以上十年未満    二、五八〇
  十一  十年以上十一年未満   二、六六〇
  十二  十一年以上十二年未満  二、七八〇
  十三  十二年以上十三年未満  二、八六〇
  十四  十三年以上十四年未満  二、九六〇
  十五  十四年以上十五年未満  三、〇五〇
  十六  十五年以上十六年未満  三、一五〇
  十七  十六年以上十七年未満  三、二五〇
  十八  十七年以上       三、三五〇


 さて、ここで会計年度任用職員制度導入後の東京都の非常勤講師の報酬額と常勤講師(1級)の給料月額+地域手当20%=基礎額との比較を確認しておこう。「時間講師の勤務時間の一単位時間は、六十分」されているので、単純に比較する。区分1に対応する号給を1号給とすべきか、大卒基準の21号給とすべきか迷うが、ここでは大卒基準の21号給によった。
 非常勤講師の報酬単価は、基礎額の1.4倍から1.65倍になっている。常勤講師の給与額に単純に比例している訳ではない。しかも、最高号給の基礎額よりも高い水準であるから、勤務時間との関係の均衡が確保されていないことになると思われる。

(東京都の非常勤講師の報酬額:対常勤講師1級)
 区分 経験年数     報酬額 対時給 号給 給料月額 基礎額 時給
 1  1年未満      1,880 1.41  21 187,000 224,400 1,336
 2  1年以上2年未満  1,950 1.42  25 192,200 230,640 1,374
 3  2年以上3年未満  2,020 1.43  29 197,400 236,880 1,411
 4  3年以上4年未満  2,090 1.44  33 202,700 243,240 1,449
 5  4年以上5年未満  2,160 1.45  37 208,600 250,320 1,491
 6  5年以上6年未満  2,230 1.45  41 214,700 257,640 1,534
 7  6年以上7年未満  2,310 1.46  45 221,700 266,040 1,584
 8  7年以上8年未満  2,400 1.47  49 228,100 273,720 1,630
 9  8年以上9年未満  2,490 1.49  53 234,500 281,400 1,676
 10 9年以上10年未満  2,580 1.50  57 240,700 288,840 1,720
 11 10年以上11年未満 2,660 1.51  61 246,600 295,920 1,762
 12 11年以上12年未満 2,780 1.54  65 252,200 302,640 1,802
 13 12年以上13年未満 2,860 1.55  69 257,800 309,360 1,842
 14 13年以上14年未満 2,960 1.57  73 263,300 315,960 1,882
 15 14年以上15年未満 3,050 1.59  77 268,600 322,320 1,920
 16 15年以上16年未満 3,150 1.61  81 273,800 328,560 1,957
 17 16年以上17年未満 3,250 1.63  85 278,800 334,560 1,992
 18 17年以上     3,350 1.65  89 283,600 340,320 2,027
 -  (最高号給)   3,350 1.44  169 326,000 391,200 2,330


 ちなみに、正規職員である教諭(2級)の基礎額とも比較しておく。
 こうして見ると、非常勤講師の報酬単価は、正規教員である教諭の時給よりも高く、1.3倍から1.39倍になっている。常勤講師と比較した場合と比べると、むしろ教諭の給与カーブを基礎にしているようにも思える。
 しかも、2級の最高号給の基礎額よりも高い。3級の最高号給の基礎額よりも高い。さて、東京都教育委員会の担当者に聞いてみないとわからない…。

(東京都の非常勤講師の報酬額:対教諭2級)
 区分 経験年数     報酬額 対時給 号給 給料月額 基礎額 時給
 1  1年未満      1,880 1.33   9 197,300 236,760 1,410
 2  1年以上2年未満  1,950 1.33  13 205,800 246,960 1,471
 3  2年以上3年未満  2,020 1.32  17 214,300 257,160 1,531
 4  3年以上4年未満  2,090 1.31  21 223,500 268,200 1,597
 5  4年以上5年未満  2,160 1.30  25 232,100 278,520 1,659
 6  5年以上6年未満  2,230 1.30  29 240,700 288,840 1,720
 7  6年以上7年未満  2,310 1.30  33 249,200 299,040 1,781
 8  7年以上8年未満  2,400 1.30  37 257,700 309,240 1,842
 9  8年以上9年未満  2,490 1.31  41 266,200 319,440 1,902
 10 9年以上10年未満  2,580 1.31  45 274,700 329,640 1,963
 11 10年以上11年未満 2,660 1.31  49 283,100 339,720 2,023
 12 11年以上12年未満 2,780 1.33  53 291,500 349,800 2,083
 13 12年以上13年未満 2,860 1.33  57 299,900 359,880 2,143
 14 13年以上14年未満 2,960 1.35  61 307,900 369,480 2,200
 15 14年以上15年未満 3,050 1.35  65 315,700 378,840 2,256
 16 15年以上16年未満 3,150 1.36  69 323,200 387,840 2,310
 17 16年以上17年未満 3,250 1.38  73 330,100 396,120 2,359
 18 17年以上     3,350 1.39  77 336,800 404,160 2,407
 -  (最高号給)   3,355 1.22  177 386,300 463,560 2,761


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508. 教員給与は適正に優遇されているのか [8.トピック]

 自治総研2020年3月号(通巻497号)に上林陽治氏の「教員給与は適正に優遇されているのか-教員の働き方改革の論じ方-」が掲載されている。

 上林氏の問題意識は、次の記述に集約されている。
 「そうすると今次改正給特法、とりわけ教職調整額を批評する観点としては、時間外労働・休日労働の不払いや労働時間規制の在り方の問題もあるが(9)、教職調整額をはじめとする給与水準調整の仕組みが、教員の働き方から見て、一般行政職員の給与との水準調整・優遇措置という機能を本当に果たしているのかということもあわせて検証しなければならない。/本稿の問題意識はここにある。」

 氏は、まず「1.教職調整額をはじめとする給与上の今日委員優遇措置の経緯」を論じていく。戦後の教員給与と超勤問題からスタートし、給特法の成立過程や人材確保法の成立過程を説明する。

 続いて「2.目減りする一般行政職との給与水準差の経過」を論じる。教職調整額の制度化と人確法制定によって教員の給与水準は一気に優遇されるものとなったのだが、その水準調整・優遇措置が維持されているかというと結論は「ノン」だと指摘する。氏は、「水準調整・優遇措置が解消してしまったなかで、時間外労働・休日労働が不払いになっていることが、問題なのである。」と主張し、「以下、この経過を、地方公務員給与実態調査から作成した表1の「都道府県の一般行政職・小中学校教員における月例給・年収額の推移(学歴計・男女計)」に沿って、検証していく。」と述べて論を進める。

 まず、月例給与水準と年収水準を検証する。ざっくり引用する。
 「この水準差(都道府県負担の小中学校教育職の給与の都道府県の一般行政職の給与に対する水準差=編注)は、3次にわたる計画的改善(1973~1978年度)が終了する1978年段階では、月例給、年収とも115に落ち着く。(略)、2018年には、平均年齢がほぼ一致しているにもかかわらず、月例給の水準差(C)が101、年収の水準差(F)が103と、教職調整額による4%優遇さえも下回ってしまった。」

 なぜ、このように水準差は縮小してきたのか。氏は、2000年代に入ってから、教員給与の引き下げ圧力が強まったことを指摘する。2006年5月成立のいわゆる行革推進法による教員給与の一律優遇の見直しの動きの中で、人確法優遇分430億円の減額が目指されることとなり、「教員給与の優遇性は解職していく。」と述べる。

 続いて、主要な給与項目ごとに推移を確認していく。まず、給料月額についてラスパイレス比較を行って検証する。
 氏は、「上記(ラスパイレス比較=編注)の手法により求められる小中学校教員と一般行政職員の給料月額の水準差は、計画的改善が終了する1978年時点において、都道府県一般行政職員の給料月額(学歴計・男女計)を100とすると、都道府県小中学校教員の給料月額(学歴計・男女計)は120.1で、給料月額だけで、この時点で約20ポイントの水準差が設けられたことがわかる。/ところが2018年になると、指数は、113.5となり、1948年当時の水準差に縮小してしまう。」と指摘する。
 そして、「水準差が縮小した背景には、1990年以降の給与制度改革の影響が作用している。/たとえば、1991年には、昇格制度の改善がなされ、昇格時の給料の引き上げ額が高まった結果、昇格機会の多い行政職給料表適用者には有利に、少ない級しか持たない教育職給料表適用者には不利なものと作用することとなった。」と説明する。

 次に、教職調整額の推移を確認する。氏は、「当時の教職調整額は2,974円と推定(給料月額×0.04%で計算)される。これに対し、一般行政職の時間外手当額は5,079円で、教職調整額は一般行政職の時間外手当の58.5%の水準にしか過ぎず、この時点ですでに見劣りしている(表3参照)。/1976年には85.5%水準まで接近するものの、その後一貫して今日まで、教職調整額と一般行政職の時間外手当額との差は拡大し、直近の調査(2018年)では、43.9%の水準まで落ち込んでいる。」と指摘する。ただ、分析で推定した計算方式は4%を前提としており、跳ね返りを考慮していない。実力6%といわれる水準で比較した方がよいのかもしれないが、いずれにせよ目減りしているのは事実であろう。
 次に、義教手当が「3分の1まで縮小している」ことを確認している。

 最後に「おわりに」で、氏は、「教員の働き方改革で問題にすべきは、長時間労働の規制だけでなく、ましてや時間外手当等を不払いにしている給特法の見直しばかりでなく、より全般的な教員の働き方に応じた処遇の在り方そのものである。」と主張する。
 その前提として、氏は次のように教員給与の優遇性の解消経過をまとめ、指摘する。
 「義務教育教員の給与水準は、1970年代中葉までは、人確法が制定されるなどにより、それなりに処遇は改善されていたが、1990年代の昇格制度改善のメリットは給料表の構造からうけられず、また2008年以降の教員給与の見直し策により、一般行政職員の給与との比較において、月例給・年収とも、その優遇性は解消している。/したがって、「教員給与は一般行政職員よりも優遇されている」との主張に根拠はない。」と。


 以上のとおり、上林氏は、教員給与の優遇性の解消の理由について、①昇格改善メリットを受けられない給料表構造、②教員給与の見直し策の2つを挙げている。しかし、このノートで学習してきた観点からすると、①を理由に挙げることには少し疑問が残る。

 平成4年から4年かけて実施された昇格改善は、いわゆる1号上位昇格制度の導入であり、俸給表の構造上、職務の級の数が多い方がメリットが累積することになる。しかし、職務の級の少ない旧教育職俸給表(二)(三)は、3号俸のカットが実施されるとともに、行政職(一)の在職者調整見合いの厚めの俸給表改定が実施されたのであった。人確法に基づく優遇措置のベースとなる旧教育職(三)については、旧行政職(一)の2級から7級までブリッジしているのだが、そうすると、1号上位昇格制度の導入された旧行政職(一)4級(係長)以上では、7級までの昇格4回分のメリットが付与されるのだが、一方、旧教育職(三)については昇格3回分に相当する3号俸のカットに加え、4年間の厚めの改定による概ね1号俸分により、制度上は均衡が分かられている。ただ、旧行政職(一)の改善効果が比較的早いのに対して、旧教育職(三)では未だに3号俸カットすべてのメリットを享受できていない層が50歳台に存在している。また、旧行政職(一)の8級以上のメリットが4回分もあり、旧教育職(三)は3級・4級への昇格2回分を踏まえても構造上見劣りすることは否定はできない。しかし、それほど大きな要素だったのであろうか。

 ここで上林氏作成の表1「都道府県の一般行政職・小中学校教員における月例給・年収額の推移(学歴計・男女計)」をもう一度よく見てみる。1990年の数値を見ると、給与月額の水準差102、年収の水準差103に対して、1995年の数値はそれぞれ101、102に1ポイント下がるに留まっており、2000年の数値はそれぞれ103、104と逆に1ポイント上がる結果となっている。
 一方、この表1でポイントが一番大きく下がっているのは、給与月額の水準差で見ると1980年の112から1985年の105の▲7ポイント、年収の水準差も1980年の114から1985年の106の▲8ポイントである。1985年(昭和60年)、8等級制が11級制に改められたのだが、実施は7月1日であった。すると調査時点は4月1日だからその効果が表れるのは昭和61年となると考えられる。何があったのか…。

 表2「都道府県一般行政職と小中学校教員の給料月額比較(1978年・2018年)」が1978年と2018年だけで、表1と同じ年刻みないし5年刻みでないのが大変残念である。


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507. 通勤手当の法律案(人事院月報第86号) [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号には、通勤手当についての法律案が紹介されている。

 昨年の7月16日、人事院は国会と内閣に対して、一般職の職員の給与について報告し、あわせてその改定について勧告を行つたが、その勧告は12月の期末手当の0.15月分の増額とともに、職員の通勤の実情に応じ一定条件のもとに、月額600円を最高限度額とする通勤手当の支給を主たる内容としている。
 (略)
 また通勤手当の支給については、政府は勧告をうけて昭和33年4月1日施行を目途として、最高額を600円とする通勤手当を支給するための必要な法的措置をとるため「一般職の職員の給与に関する法律の一部を改正する法律案」を、3月1日、国会に提出した。
 以下はこの法律案の全文である。

 一般職の職員の給与に関する法律の一部を改正する法律(案)

 一般職の職員の給与に関する法律(昭和25年法律第95号)の一部を次のように改正する。
 第5条第1項中「扶養手当」の下に「、通勤手当」を加える。
 第12条を次のように改める。
(通勤手当)
第12条 通勤手当は、左に掲げる職員に支給する。
 一 通勤のため交通機関又は有料の道路(以下「交通機関等」という。)を利用し、且つ、その運賃又は料金(以下「運賃等」という。)を負担することを常例とする職員(交通機関等を利用しなければ通勤するこが著しく困難である職員以外の職員であつて、交通機関等を利用しないで徒歩により通勤するものとした場合の通勤距離が片道2キロメートル未満であるものを除く。)
 二 通勤のため自転車その他の交通の用具で人事院規則で定めるもの(以下「自転車等」という。)を使用することを常例とする職員(前号の規定に該当する職員及び自転車等を使用しないで徒歩により通勤するものとした場合の通勤距離が片道2キロメートル未満である職員を除く。)
2 前項第1号に掲げる職員に支給する通勤手当の月額は、人事院規則で定めるところにより算出したその者の一箇月の通勤に要する運賃等の額に相当する額がら100円を控除した額とする。但し、その額が600円をこえるときは600円とし、通勤のため交通機関等を利用する外、あわせて自転車等を使用することを常例とする職員についてその額が100円に満たないときは100円とする。
3 第1項第2号に掲げる職員に支給する通勤手当の月額は、100円とする。
4 前3項に規定するものの外、通勤の実情の変更に伴う支給額の改訂その他通勤手当の支給に関し必要な事項は、人事院規則で定める。
   附 則
(施行期日)
1 この法律は、昭和33年4月1日から施行する。
(地方自治法の一部改正)
2 地方自治法(昭和22年法律第67号)の一部を次のように改正する。
  第204条第2項中「扶養手当」の下に「、通勤手当」を加える。
(以下、略)


 通勤手当の支給を求めた1957年7月の人事院勧告の概要を人事院月報第78号(1957年8月号)から抜粋してみよう。

 報告
2 民間給与の実態と公務員給与との比較
 (略)
 また、本院の調査によると通勤手当の実施状況は第3表にみられるとおりであつて、多数の民間事業所がその支給を行つており、月額の平均は550円程度、最高額を制限している場合における最高制限額の平均は630円程度となっている。
 (略)
 以上の諸事情を総合勘案すれば、俸給表の金額を改訂することの必要は認められないが、期末手当を増額するとともに、新たに通勤手当を支給することが適当と認められる。

 勧告文を見ると、通勤手当の支給に要する経費が約13億円であることが記載されている。


 学陽書房の『公務員給与法精義』(全訂版総和62年)は、通勤手当の沿革について次のように解説している。

 我が国の給与制度のなかにこの通勤手当がとり入れられるようになったのは、戦後のことである。その理由としては、戦後における住宅事情の逼迫がとくに都会地において顕著であり、このために多くの者が遠距離通勤を余儀なくされるとともに、これがもたらす通勤費の増大が給与水準の低い若年職員等にとって少なからざる負担となったこと等があげられているとともに、職務と直接関係のないこのような給与が妥当なものとして支持されている根拠は、戦後の住宅事情の下においては、通勤距離の長短が一般的には職員本人の意思とは無関係である場合が少なくないと理解されていることに基づくものであるといえる。… 


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506. 日宿直も教諭の職務(人事院月報第85号) [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号の「資料室」と題するコーナーに、教員の職務にかかわる新聞記事が紹介されている。

 日宿直も教諭の職務

 山形県人事委員会は昨年12月20日、学校火災の責任を問われ減給処分された遊佐小学校金子教諭から出された不利益処分の審査請求に対し、「減給処分を取り消して戒告処分に修正する」との判定をくだした。一昨年の4月5日、遊佐小学校の火災にさいし、当夜宿直していた金子教諭は「学校事故防止の監視を怠つたのは教諭としての職務を果たさなかつた」との理由で教育委員会から減給処分を受け「日宿直は教諭の義務的な職務sではない」と審査請求していたもの。
 判定の内容は大略つぎのとおり
 (1) 学校の校舎、設備の管理保全ためには日宿直勤務は児童の教育を行う上に必要欠くべからざるもので、教員の職務内容には日宿直の勤務が含まれる。
 (2) 教員の職務は独立しておりその職務に関しては学校長の指揮監督の下にはないという請求者の主張は当らない。学校長は所属の教員に対し日宿直を命ずることができ、所属教員はその勤務に従う義務が発生するものと解する。
 (3) 請求者が酒をのんで宿直の事務引継ぎを1時間半もおくらせたことは職務上の怠慢と認められる。
 (4) 処分に当り、教育委員会が請求者の弁明をきかなかつたことは懲戒規定にそむくが、だからといつて問責の事由が消滅するものではない。
 (山形新聞 昭32.12.21)


 この記事を読んで、文部科学省職員による研究会の本に「教諭の職務」についての記述があったことを思い出した。
 『第六次全訂新学校管理読本』(学校管理運営法令研究会編著。第一法規)から該当箇所を抜粋する。

1 教諭の職務
 学教法第三十七条第十一項は、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」と規定している(この規定は小学校に関するものであるが、当該規定は中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校についても学教法第四十九条(略)によってそれぞれ準用されている。また、幼稚園についても(略)。
 したがって、教諭は、教育活動に関する事項をその職務とするのであるが、だからといって教諭の職務が教育活動に限定されるものではない。すなわち、学校においては、実情に応じ、教諭にも学校の施設設備の管理の仕事や事務系の仕事を分担させることができるものであり、そもそも学校には処理すべき種々の校務がある一方、それを処理する教職員数は限定されているのであり、組織体として全員で校務を処理するという観点から、そのように分担する必要があるのである。前述の学教法の教職員の職務に関する規定は、それぞれの職に就いた教職員が果たすべき主たる職務について定めているものであって、それ以上に当該職務に限定する趣旨のものではないのである。このことについて判例でも、「学校教育法第五一条(注・現第六十二条)によって高等学校に準用される同法第二八条四項(注・現第三十七条第十一項)は、教諭の主たる職務を摘示した規定と解すべきであるから、同条四項の規定を根拠として児童に対する教育活動以外は一切教諭の職務に属しないものと断ずることは許されない。もとより教諭は、児童生徒の教育を掌ることをその職務の特質とするのであるが、その職務はこれのみに限定されるものではなく、教育活動以外の学校営造物の管理運営に必要な校務も学校の所属職員たる教諭の職務に属する」(昭四二・九・二九 東京高裁判決)と判示している。


 この読本に引用されている判例は、静岡県の教員が労基法の許可なく命じられた「宿日直勤務」を巡って争った事案であったのだが、実は省略されている部分がある。以下、判決文の該当箇所を抜粋する。

 学校教育法第五一条によって高等学校に準用される同法第二八条第四項は、教諭の職務として「教諭は児童の教育を掌る。」と定めているから、右規定を平面的に文理解釈するときは、教諭の職務は児童の教育を掌ることのみにあると解する余地がないわけではないけれども、学校教育法第二八条は教育活動を目的とする人的・物的要素の総合体である学校営造物の各種職員の地位を明らかにするため、その主たる職務を摘示した規定と解すべきであるから、同条第四項の規定を根拠として児童に対する教育活動以外は一切教諭の職務に属しないものと解することは許されない。もとより教諭は、児童生徒の教育を掌ることをその職務の特質とするのではあるが、その職務はこれのみに限定されるものではなく、教育活動以外の学校営造物の管理運営に必要な校務も学校の所属職員たる教諭の職務に属するものと解すべく従って学校施設・物品・文書の管理保全および外部連絡等の目的をもって行われる宿日直等もこの意味において教諭にこれを分掌すべき義務があり、上司たる校長は教諭に対し、職務命令をもって宿日直勤務を命ずることができ、右勤務を命ぜられた教諭は、あえて法令の規定をまたず職務としてこれに従事する義務があるものといわなければならない。
 そして、このように手続に違法のある宿日直勤務については、法第四一条第三号、同法施行規則第二三条によって、労働時間、休日労働等の関係規定の適用除外が認められない関係上これを労働基準法上の時間外または休日労働と目し、超過勤務として取扱うべきであるとの行政解釈(昭和二三年四月二二日基収第一〇三九号、なお昭和二三年九月二〇日基収第三三五四号)が行われたけれども、そもそも超過勤務手当は、正規の勤務時間をこえて勤務することを命ぜられた職員に正規の勤務時間を超えて勤務した全時間に対し、勤務一時間につき、勤務一時間当りの給与額を一定の割増率によって支給されるものであって、本来の勤務の延長に対する給与にほかならないというべきところ、被控訴人のなした宿日直は、既述のところから明らかなように、その実態において法第四一条第三号規則第二三条にいう断続的労働に該当し、教諭としての本務に附随する職務と見られるべきものであって本来の勤務の延長または変形ではなく、本来の勤務とは別個の労働であること、法第四一条第三号、規則第二三条の立法趣旨に照し、同条の許可は、その存否如何によって時間外労働となるか否かを決するものとは考えられないことからすれば、被控訴人のなした宿日直勤務が右許可を得ない違法なものであったことによって直ちに右勤務に対して超過勤務手当等が支給されるべきであるということはできない。それ故本件宿日直勤務に対する手当の額が超過勤務手当等とひとしい額でなければならないとの被控訴人の主張は失当であるというのほかはない。
(東京高等裁判所判決。事件名 判定取消請求控訴事件。裁判年月日 昭和42年9月29日。事件番号 昭和40年(行コ)23号。裁判結果 一部取消・一部請求棄却)



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