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510. 藻利重隆=人事院月報第87号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 人事院月報の1958年5月号(第87号)は、巻頭に藻利重隆の論評を掲載している。藻利重隆は、労務管理が専門の経営学者で一橋大学名誉教授。

 テイラアの精神革命論と人間関係論

 ・・1・・
 アメリカにおいて「科学的管理」が広く一般の関心をあつめるようになつたのは1910年のいわゆる「東武鉄道運賃事件」(the Eastern Railway Rate Case)以後のことであるが、こうした事態は労働組合の科学的管理に対する懐疑的態度を刺激することとなり、1911年には、ついに労働組合の科学的管理排撃運動の展開を見るようになる。そして、それはやがてアメリカ議会の黙視しえないものとなり、1911年8月にはこれに対処するための特別委員会が議会に設置せられた。「テイラア・システムおよびその他の工場管理制度の調査に関する下院特別委員会」(the Special Committee of the House of Representatives to Investigate the Taylor and Other Systems of Shop Management)がすなわちそれである。この委員会の調査が「テイラア・システム」ないし「科学的管理」を対象とするものであつたことはいうまでもないが、そのために1912年の1月25日、26日、27日および30日の4日間にわたつてテイラア(F.W.Taylor,1856-1915)自身がその聴聞会に召喚せられている。テイラアはそこで彼の提唱する「科学的管理」がどのような性質のものであるかについて証言をもとめられたわけである。この聴聞会におけるテイラアの証言の内容は後に「テイラア証言」(Taylor's Testimony Before the Special House Committee)として公刊せられているのであるが、この証言においてテイラアが、科学的管理にとつてもつとも重要なものとして提唱しているものこそは、「精神革命」(Mental revolution)にほかならない。そこでわれわれはこのテイラアの精神革命論の意味するところを「テイラア証言」にもとづいて検討してきることとしたいのである。

 ・・2・・
 「テイラア証言」におけるテイラアの主張の中心が「精神革命」に見出されることは、否定しえない事実をなすのであるが、しかも、その意味するところは必ずしも明確ではない。テイラアの陳述はきわめて曖昧であるのみならず、さらに、しばしば矛盾するものを含んでいるのである。テイラアの精神革命論を究明するためにはわれわれは第一に精神革命の内容を問題としなければならない。と同時にわれわれはさらに第二にこの精神革命と科学的管理との関係を明らかにしなければならないのである。まず第一の問題から考察していくこととしよう。
 テイラアが精神革命の内容として陳述しているものは必ずしも一貫していない。これにはまず二様の見解が区別せられなければならない。その第一は労使双方の側における精神的態度が労使敵対主義から労使協調主義へと変革せられることを精神革命であると解するものである。これに対して、第二の見解は、労使双方の精神的態度について二つの変革が完成せられるところに精神革命の成立を理解する。そして、ここにいう二つの変革とは労使敵対主義より労使協調主義への精神的態度の変革と、伝習主義より科学主義への精神的態度の変革との二つを指すのである。われわれはここでは第一の見解を「狭義の精神革命」とよび、これに対して第二の見解を「広義の精神革命」とよぶこととしよう。精神革命の意味に関してテイラアが意識的に展開するものは、この二種の見解につくされているようである。
 ところで、テイラアはこのような精神革命が科学的管理にとつてもつとも重要なものであることを主張するのであるが、その意味するところは、精神革命が科学的管理の本質(essence)をなすということにある。それでは精神革命が科学的管理の本質をなすということは、そもそもどういうことを意味するのであろうか。けだし、このことに関するテイラアの陳述ほど思想的混乱を来たしているものはないように思われる。そこには諸種の見解がのべられている。第一には精神革命の達成を目的とするところに科学的管理の本質的意義があるとする見解がみうけられる。そしてこの場合の精神革命は狭義のそれであることを注意しておかなければならない。テイラアは科学的管理の「機構」とその「本質」とを区別する。科学的管理そのものはテイラアにおいては「善」としての「本質」を備えているものと解せられているのであるが、科学的管理の「機構」は「善」のためにも「悪」のためにも使用せられうるエンジンであつて、こうした「機構」のうちには「善」としての科学的管理の本質は把握せられえないと解するのがテイラアである。そして、ここにいわゆる「善」が労使の共栄であることはいうまでもない。つまり、科学的管理の本質はその目的としての精神革命と、したがつて労使協調主義の実現による労使の共栄にあるのであつて、そのための手段としての管理の機構のうちにはこれを見出すことは出来ないと解するわけである。ところが、この解釈をとるときは、科学主義の実現は科学的管理の本質とは無関係となり、科学的管理は無内容な労使協調主義の実現という抽象的な精神革命論なりおわらざるをえない。けだし、科学主義の実現は、科学的管理の「本質」から区別せられたその「機構」に関して要請せられているものであり、テイラアのいわゆるエンジンに関して問題となるものにほかならないからである。そして、テイラアが「科学的管理の諸原則」として論述するところもまた科学的管理の本質とは無関係なものとならざるをえないであろう。

 ・・3・・
 精神革命が科学的管理の本質をなすということの意味に関するテイラアの第二の見解は、精神革命の完成を前提条件としてはじめて実施することの出来るものが科学的管理であるとする解釈に見出される。そして、この場合の精神革命は広義のそれであることを注意しておかなければならない。テイラアはある会社に科学的管理が実施せられているかどうかを判定するためには、第一に広義の精神革命が労使双方の側に成立しているかどうかを判定しなければならないということをのべているのであるが、その意味するところは、まさに広義の精神革命が科学的管理の実施に必要とせられる前提条件をなすことにあるものと解せざるをえないであろう。だが、もしも精神革命の完成がたんに科学的管理を実施するための前提条件をなすにすぎないとするならば、これを前提として実施せられる科学的管理そのものの本質は、精神革命のほかに別個に見出されなければならないこととなるはずである。科学的管理のための前提条件をなすことのゆえに精神革命は科学的管理の本質をなすという主張は、理論的には困難であると解せざるをえないわけである。
 ところが、テイラアは他方において科学的管理に関して、あたかも産業革命の初期において機械破壊運動による労働者の強烈な抵抗があったにもかかわらず機械生産が発展して来たのと同様に、科学的管理もまた歴史的必然性をもつて発展するものであることを強調する。つまり、科学的管理は労働者のあらゆる反対にもかかわらず進展するべき必然性をもつ労働節約策の一つであると解せられているのである。したがつて、科学的管理はけつして労使協調主義の完成ないし狭義の精神革命の成立をその必然的な前提条件とするものではないのみならず、さらにそれはこうした精神革命の完成をその目的とするものでもなくて、まさに労働節約策の一種として実施せられるものであることが強調せられているわけである。
 けだし、科学的管理が無内容な精神革命論に堕することを回避するためには、狭義の精神革命を目的とするということのうちに科学的管理の本質をもとめることは出来ないであろう。また、たとえ広義の精神革命が科学的管理の前提条件をなすということが承認せられうるとしても、こうした前提条件のうちに科学的管理の本質をもとめることはついに不可能であろう。このようにしてわれわれは、精神革命をもつて科学的管理の本質だとするテイラアの主張はついにこれを承認しえないこととなる。「科学的管理の機構」と「科学的管理の本質」とを区別することは必要であろう。そのかぎりにおいてはわれわれはテイラアの主張を肯定することが出来る。だが、科学的管理の本質は、テイラアの主張するように、その機構とは無関係なものだと解するわけにはゆかない。われわれはかえつて科学的管理の機構の全体を貫き、これを支えるものとして、機構のうちに内在する統一的原理をこそ、科学的管理の本質として把握しなければならない。そうだとすれば、科学的管理が労働節約策の一種をなすものであるということはついにこれを否定しえないのである。労働節約策としての科学的管理の機構をはなれて、これとは無関係に科学的管理の本質を求めようとするテイラアの見解は、ついに承認することが出来ないわけである。
(続く)


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