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516. 文官任用制度の歴史Ⅲ [49.「人事院月報」拾い読み]

 「文官任用制度の歴史」は2回で終わりではなく、人事院月報第97号(1959年3月号に続きの〔Ⅲ〕が掲載されていた。例によって、適宜抜粋する。

  Ⅴ 昭和初頭から終戦までの任用制度の変遷

 (1) 政党勢力の影響
 大正の末から昭和のはじめにかけては政党勢力の最盛期であつた。ことに昭和2年6月に憲政会と政友本党とが合同して立憲民政党が生まれてからは、政友会、民政党の2大政党が対立し、両党の総裁が交互に首相として政権を握つた。政党勢力の官庁内部への浸透の様子については、前回にも触れたとおりであるが、そのための手段として活用されたのが、文官分限令第11条第1項第4号の「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」は休職をじることができるという規定であつた。この規定によつて、政府与党になじまぬ官吏を休職にしたのである。休職を命じられた者は休職期間が満了すると当然に退官するというのが分限令による制度であつた。この規定による休職期間は、分限令制定当初は高等官、判任官の区別なく3年であつたが、明治36年以後改められ(勅156)、高等官の場合は2年、判任官の場合は1年とされた。
 この規定を用いて、時の政府が事実上自由に官吏を罷免するようになつたので、政策の決定に関与する上級の官吏は、多かれ少かれ政党色に染まることになつた。ことに、選挙に関して強い勢力を持つ地方長官についてはこのことがはなはだしく、政変ごとに更迭されたのである。………(第97号8頁)

 戦前の分限制度で「休職期間が満了すると、当然に退職」とされていたことは知っていたが、このような使われ方をしていたとは思わなかった。現在の分限制度では「当然に復職」とされている。

(3) 政党勢力の没落
 昭和7年5月15日に陸軍と海軍の若手将校の一団によつて、政友会内閣の犬養首相が暗殺された5・15事件を機に、政党政治の全盛時代は終わりを告げた。すでに昭和6年9月若槻内閣の時代に関東軍によつて満州事変の火ぶたが切られており、いわゆる非常時が始まつたのである。
 犬養内閣の後をうけて退役の海軍大将斎藤実を首班とした挙国一致内閣が成立した。この内閣の下で当時俗に官吏身分保障令の制定といわれた分限の制度改正が行われた。すなわち、内閣成立後間もない昭和7年9月24日公布の文官分限令の改正(勅253)と文官分限委員会官制の制定(勅254)がそれである。
 その内容は、「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」に官吏に休職を命じる場合は、高等官については文官高等分限委員会、判任官については文官普通分限委員会の諮問を経なければならないことにし、本人の同意があつた場合に限りこの諮問の手続きを省略しうるものとしたこと、および、従来官吏が刑事事件に関して単に告訴または告発されたときには休職を命じることができたのを、起訴されたときに改めたことである。
 ………このようにして、政党は官吏に対するその最大の武器を失つた。
 枢密院はこの制度改正には双手を上げて賛成した。………
 この時政府は自由任用の官の範囲の縮少をも枢密院に対して約束した。」………
 これは2年後の昭和9年4月9日同じ斎藤内閣の手によつて実現した。その結果、内務省警保局長、警視総監、貴族院書記官長、衆議院書記官長が自由任用の範囲から削られ、自由任用として残つたのは内閣書記官長、法制局長官、各省政務次官、各省参与官、秘書官のみとなつた。このままの形で終戦時まで続いたのである。(同号9頁~)

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