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276.へき地手当(その3) [35.へき地手当]

 昭和30年前後の国会会議録を見ていくと、へき地教育を巡っての審議に多くの時間が割かれていることが確認できる。へき地における生活の実情や、多学年授業の困難さなども紹介され、審議に多くの時間が割かれたようである。
 戦後まもなくの山深い山間地や離島などのへき地では、分校や季節分校といった小規模校が多かった。そして、教員の確保の面では助教諭が多いなどの状況があり、施設・設備の面でも都市部や本校に比べて不十分であったようである。教育基本法が、憲法の精神を具現化する教育の機会均等を高らかに謳ったにもかかわらず、へき地における児童生徒の教育条件は、平地と比較して著しく不利な状況に置かれていたのである。
 そのような中、教育関係者や教育行政関係者を中心にへき地教育の振興施策を求める声が高まりを見せ、昭和28年には、衆参両院において、へき地教育振興に関する決議が行われるに至った。これを受けて、文部科学省も、全国のへき地教育の状況やへき地手当の支給状況を調査したようである。(昭和28年4月、文部省調査局『小・中学校教員に対する「へき地手当」支給規定の概要と実情』。薄っぺらい報告書だが、当時の支給規定も盛り込まれていて、このノートのためには参考になる。)
 そして、昭和29年、へき地教育振興法が制定されたのである。
 これによって、へき地教育の振興のための都道府県及び市町村の任務が明確にされるとともに、教職員のための住宅の建設や教員を養成する施設の運営等に必要な経費に対し国が補助を行うこととされた。ただ、この法律の制定時には、へき地手当は明確化されておらず、都道府県に対して、へき地学校に勤務する教職員に対する特殊勤務手当の支給にすいて、特別の考慮を払わなければならないことが義務付けられたのみであった。
 当時、各都道府県では、国の特地官署に準じてへき地学校の指定を行っていたようであるが、相当バラツキがあったようである。更に昭和31年に人事院が特地官署指定基準を明らかにしたのだが、この基準を厳格に適用するとへき地学校の約半数が指定外になるような状況があったらしい。
 そこで、当時の国会でもへき地手当を巡って、へき地学校指定基準の合理化を求める意見が出されるなど、色々と議論が行われたようである。そうした状況に対応して、昭和33年に、へき地教育振興法が一部改正され、へき地学校に勤務する教職員に対してへき地手当を支給すべきことが明確に規定されるとともに、その支給の基準が定められ、更にはへき地学校指定基準を文部省令で定めることとされたのである。

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