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492. 金森徳次郎=人事院月報第76号(その2) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前々回に続き「人事院月報第76号」金森徳次郎の文章(続き)

   公務員に関する種々面

 公務員と言う語が色々に使われているのでまぎらわしいが、少なくとも第一に公職それ自身を遂行している立場と第二にその公職を構成する人間の立場とを区別したい。裁判官が判決を言い渡すときには裁判官の発言はとりもなおさず国家の意思発表である。外務大臣が外国国交機関に対し外交交渉をするときは即ち国家自体の外交的発言をするのである。国家と言う組織体に現実の生理的な口や手があるわけではないから、この公務員の口や手の動きをもつて国家の口や手の作用を満たすのである。公務員の行動が直ちに国家の行動を充実するのである。二者は活動に於いて合一しているのである。公務員の機関活動である。これは公務員が国家を代表すると言えば大体の意味が通ずる。所がこれと違つて国務大臣が国会で答弁するときなどに自分は個人としてはこの案に反対だがなお関係部局と協議して善処すると言うようなことがある。これなどはアイマイだが、内容から見て直接に国家の決定的意見を表現してはいないが、結論に進んでいる中途であることを表明しているのだから一種の機関活動と言える。所で某大臣が食堂において飲酒し、談笑し、冗談的な活動をしたとするとこれはどんな意味においても国家の行動を代表しない。その人の行動は公職ではなくてその基礎にある一個の人間の行動である。公務員の行動ではあるが公職の発露ではない。多分私的行動であろう。これでわかるように公務員と言えば生きた人間を指すのである。その生きた人間は公職を行うこともあり、公職以外の私務を行うこともあり、本来の公職以外の他の公職を行うこともあり、裁判所に証人に呼び出されることもあり、選挙権の行使として投票に行くこともあり、又は自分の宗教心の発露として宗教上の儀式又は行事を行うこともあり、その他一般国民としての諸活動をすることは基本的人権でもある。こんな風に公務員だからとて全部的に公務員の仕事ばかりに没頭しているのではないから実際に公務員と言う身分をもつている人間の行動は複雑な制限に服することになる。勿論公務員も基本的人権を有するのであるが、そこに若干の行動上の制限が起ることは想定出来る。政治活動について其の事例はある。これは何も人権が抑制されるのではなくて事実上両立しないと説明するのが正しいだろう。

   全体の奉仕者

 公務員奉仕の根本は何と言つても人々の奉仕念願である。人々は自由に生まれて来たのに公共奉仕のために何故に精魂をつくさねばならぬか。ここを自分でよく割り切ることが最大眼目である。国家公務員法第96条に服務の根本基準を示して「国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し且つ職務の遂行に当たつては全力を挙げてこれに専念しなければならない」とある。これは正しい規定であり公務員たるものは何よりも先にこれを銘記しなければならぬ。だが何故にこの服務規準が成立するのか。法律に書いてあるから当然遵法の義務のあることは勿論だが、それは小乗的な見解であつて、もつと根本に遡るとそれは根本的に我々の国家共同生活意識に遡らねばならぬ。人間は個人が本体か集団が本体かは色々に議論があろうが集団的に生きた者でなければ幸福に存立し得なかつたことは事実である。また我々は同類を愛する。この愛情に根元して集団生活をなし各人が相依り相たすけ一つの秩序ある集団を作つて生きることを理念とすることは大体において争いのない所であるとすると、各個人は自分の分を守つて活動すべきは当然だが、その公共利益のために奉仕するもののなくてはならぬことも常識だ。即ち公務員の必要なことは当然だ、そして公務員となることは各人の義務でありまた同時に権利である。これが憲法第15条の精神である。だから本来から言えば公務員は雇われ人ではない。俸給や利益のために身を公務員とするのではない。国民的な責務として担任するのである。自由意思で任用するような形にしているのは制度上それが適切であるからである。それでは誰に対して奉仕するのか、旧くは天皇に隷属する旨が文字に書かれていた。官吏は天皇の使用人だとも言われた。これは旧時代の一つの解釈には相違ないが事実は必ずしもそうではない。国のために奉仕したと思つたのが大部分だろう。天皇はその象徴と言う意味において解釈していたのだろう。斯く考えて行けば色々の要項が平易に推論されてくる。

   公務員は国民に奉仕するものである

 公務員が銭湯へ行つた。上司もそこに来ておつた。上司が「自分の背中を流せ」と言つた。その公務員は如何にすべきか。勿論流す義務もなく流させる権利もない。公務の関係はない。個人的親愛の念で好意をつくすのは勝手である。この簡単なことが明治以来災の種であつた、軍隊には従卒制があつて、時には上官の家庭で赤ん坊の世話までもしたのがあると伝えられる。兵役義務で徴集され、赤ん坊の世話をすると言うのは奇観である。卑屈と権力乱用の結晶そのものである。
 上司は職務遂行の範囲で下司に命令を発することは出来るがそれ以上は権限外である。この考を純粋に持ち支え得ぬことから公務員の汚職が起つたり、公務員の選挙犯罪が起つたりする。多くは不当の圧迫を恐れたり、こちらより迎合して将来の利益を獲得せんとするのである。骨あるものは断乎抵抗すべきである。

   公務員の自己向上責任

 現在の公務員制から言えば各員は現職を果す能力があればよろしい。割りあて普請のように配置されるからである。理論は筋が通つているが、公職全体から言うと歳月と共に個人の能力が向上しまた年齢と共に地位が向上することを軽視している。各人に能力向上の機会を与えしたがつてまたよき公務員となれるように道を開くべきだろう。これは制度の問題としてよき公務員を官界から外部に駆逐し、能力水準を低下させる傾をもつている。

   権力乱用

 公務員が権力を乱用する弊は過去に於いて目立つた。ところが公務員に対して権力が乱用され、その為公務員の行動が屈折される弊もあろう。汚職事件調査の途中に於いて関係者が自殺することを見、心弱き人々が力と正義の間にはさみ打ちになるのではないかと疑うのであるが、このような公務員に対する圧迫も時代の病患であろう。

 筆者(写真)・国立国会図書館長



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