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486. 佐藤達夫=人事院月報第75号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 「人事院月報第75号」には、元法制局長官で後に人事院総裁になる佐藤達夫が「憲法回想-公務員に関する規定あれこれ-」を寄せている(昭和32年5月1日発行)。

 憲法回想-公務員に関する規定あれこれ-

 早いもので、もう憲法実施10周年を迎えることになつた。この憲法が占領下における異常な環境の中に生まれたものであり、その成立の内幕をめぐるあれこれもいまでは人の知るとおりだが、その最初の段階から、終始これに関係してきた私としては、10年の声を聞いていまさらながら感慨のふかいものがある。
 当時をふりかえつてみると、幣原内閣の松本国務大臣が起草した憲法改正案、いわゆる松本試案が司令部によつて全面的に拒否され、そのかわりに司令部で作つたいわゆるマッカーサー草案を手本にして新しい案を作り直せといわれたのが昭和21年の2月13日だ。政府は、何とか松本案を土台として局面を打開しようと、向うとの折衝を重ねたが遂に目的を達せず、逆に新案の作成について矢のような催促を受けて、これに応ぜざるを得ない立場に追い込まれたのであつた。
 かくして、松本国務大臣とその助手を命ぜられたわたしが、極秘のうちに、且つ、大いそぎでマ草案に基づく新草案を起草し、3月4日にそれを司令部に持ち込んだ。そしてその場ですぐに審議がはじまり、丸2日、全くの不眠不休で司令部の相手をさせられた。さんざんそこでいびられたあげく、一応の政府案がまとまつたわけだが、それから、議会の審議を経て、昭和21年11月3日の公布にこぎつけるまでの苦労は大変なものであつた。当時の立案関係者の一人として、この憲法の条文の一字一句には幾多の思い出がこもつている。
 それから、時期的にはそのずつとあとになるけれども、国家公務員法の制定についても、わたしは深い関係をもつたが、これも司令部相手の仕事で、憲法のときと似たような経験をなめた。
 そういうことから、憲法の公務員に関する二、三の条文を中心としつつ、公務員法の思い出もからめて、若干の回想を書きつけてみよう。
    ※      ※
 憲法第73条に、内閣の権限として「法律の定める規準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。」というのがある。
 この条項は、マッカーサー草案では administer the civil service となつていた。それが当時の外務省仮訳では「内政事務ヲ処理スヘシ」と翻訳されていたのである。この訳は、昨今学者たちのひやかしの種になつているが、実は、われわれが、このマ草案にもとづいてつくつた初稿でも、やはりこの「内政事務」が踏襲されていた。もちろん civil service が公務員を指すことばであるぐらいのことは、われわれとしても承知の上だつたが、英和辞典を見ると「行政事務」というような訳もないではないし、ここは、広い意味のものにしておいた方がいいという、たしか松本大臣の意向で外務省訳をそのままに取り入れたのであつた。そしてこの点は司令部でも別に問題にならなかつた。
 しかし、いよいよ司令部の審査がすんで、要綱として発表しようというとき、「行政事務」ではその前にある「国務を総理すること」とダブル形になるし、やはり第一義として「官吏」にした方がよかろう、ということで、「国会ノ定ムル規準ニ従ヒ官吏ニ関スル事務ヲ掌理スルコト」に改め、それ以来ずつと「官吏」とされてきたわけである。
 これについて思い出すのは、国家公務員法第1条第2項に「この法律は、もつぱら日本国憲法第73条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである」が加わつたいきさつである。
 この条文は、例の昭和23年7月のマッカーサー書簡にもとづく大改正で入つたのであるが、このときの改正について、先方から突き付けられたモデル案というのが相当徹底したものであり、それには憲法上の疑義も少なくなかつた。
 たとえば、人事院の独立強化もその一つだつたが、そのほか、「この法律により、人事院が処置する権限を与えられている部門においては、人事院の決定及び処分は、その定める手続により、人事院によつてのみ審査される。」とあつて、司法権までも排除するような形になつていたり、あるいは「何人も故意に、この法律、人事院規則又は人事院指令に違反し、又は違反を企て、若しくは共謀して違反を企ててはならない。……」という条文があり、この違反行為に対して白紙刑法ともいうべき包括的な罰則が付いていたり、等々の問題があつた。
 この改正案の立案については、わたしたちは連日連夜司令部に通い、議論を重ねたが、そのあげく、たとえばさきの人事院の審査権については、現行法第3条第5項に見られるように「前項の規定は、法律問題につき裁判所に出訴する権利に影響を及ぼすものではない。」という規定が加わり、また罰則も具体的に細かく規定するなど、だいぶん調整が加えられたのであつたが、それ以外の点ではわれわれの主張を押さえつけられたところも少なくなかつた。
 こんときの先方の主任官は、公務員課長のフーバー氏であつた。この人は、メリット・システムに対する信仰の権化ともいえるくらいに熱心な、しかもやかまし屋の老人で、相手にとつては、まことに手ごわい存在だつたが、しかしその一面、皮肉と茶目気をもつていて愛すべき人物でもあつた。
 このフーバー氏が、第1条第2項の「この法律は、もつぱら日本国憲法第73条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである。」という規定を提案したのである。それは、あまりわれわれがうるさく憲法論を持ち出したので、「それほど憲法のことが心配なら、ここに、これを入れておけば安心だろう。」というわけであつた。こんな規定を入れたところで、何のまじないにもならないことはわかり切っていたし、あるいは、この提案も彼一流の皮肉から出たことではないかと一応は勘ぐつてみたのであつたけれども、別に害になることでもないし、そのときの彼の目付はずいぶん真剣のようだつたから、なまじ、これにたてついて他の交渉が不利になつてはと思つて素直にこれを頂戴したのであつた。
 ところで、余談はそのくらいにして、この憲法の第73条についてよく聞かれることは、なぜ、「公務員」とせず「官吏」としたのかということである。わたしの関知する限り、これは明治憲法時代の用例に従つてこうしただけで、別にむずかしい理くつがあつたとは思われない。要するに、それは国の役人の意味であり、憲法第93条(地方公共団体の機関の直接選挙)に出てくる「吏員」が自治体の役人を指すのと対応して使われた用語だといつてよかろう。第7条の「官吏の任免」の官吏も同様である。なお、憲法では国及び自治体の役人の両方を含める場合には、「公務員」といつている。第15条(公務員の選定罷免)、第16条(請願)、第17条(国家賠償)、第36条(拷問の禁止)、第99条(憲法尊重の義務)、第103条(経過規定)などに見られるのがそれである。とにかく、「国家公務員」、「地方公務員」ということばは、いまでは耳なれてしまつているが、この憲法ができるときには、法令用語としてはまだ熟していなかつた。
(次回へ続く)


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485. 教育職(三)の等級数=人事院月報第74号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 「人事院月報第74号」(昭和32年4月1日発行)には、15級制を8等級制に変更するための給与法一部改正法案の要点が掲載されている。抜粋してみる。

 改正法案は基本的には勧告の趣旨にしたがい、原稿の15級の職務の分類制度を中軸として運営されている俸給制度の不合理を是正するため、職務の特性に応じて8種類の俸給表を定め、7等級を原則とする等級区分を設けているが、制度の細部については、各省庁その他各方面の意見をも徴し、若干修正が加えられている。
 そのおもな点をあげると、次のとおりである。
  俸給表の種類
 改正法案では、つぎのように8種類16表の俸給表が設けられている。これは、勧告の俸給表にたいし、行政職(二)、公安職(二)および医療職(三)の3表が追加されたわけである。

 教育職に関しては、既にいわゆる三本建給与になっていたから、勧告どおり教育職(一)、教育職(二)、教育職(三)の3表を設ける改正案となっている。
 「俸給表の構造」の項に「等級区分」の解説がある。

1 等級区分:勧告の趣旨にしたがい、7等級を原則とする等級区分を設けているが、適用範囲の変更などにともない、若干の修正が加えられている。これもまた、対照表をつくるとつぎのとおりである。
(※抜粋する)
 俸給表 等級数修正案 勧告 備考
 行政職(一)   7  7
 教育職(一)   6  5  教育職員(丙)を対象とする6等級を加えた
 教育職(二)   3  3
 教育職(三)   3  1  校長等を対象とする1等級及び助教諭等を対象とする3等級を加えた

 教育職(三)の等級数については、人事院勧告が1等級であったのに対して、給与法改正案では校長等を対象とする1等級及び助教諭等を対象とする3等級が加えられ、教育職(二)と同じく3等級に変更されたのであった。

 なお、国会において、政府案による行政職(一)(二)を一本化して7等級制を8等級制の俸給表とすること、技能労務職(一)(二)に代えて5等級制の俸給表を設けて行政職(二)とすることなどの修正が加えられた。

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484. 蠟山政道=人事院月報第74号(その3) [49.「人事院月報」拾い読み]

 蠟山政道「人事行政に望むもの」(つづき2)

 このような三つの特徴をもつている公務員法および人事行政は、日本の行政制度を人事の面を通じてかなり変革した。ことに目立つのは、第二の特徴であつて、過去の不統一な人事制度をアメリカに発達した人事行政上の観念に従つて統一することに一歩前進した。そうして、同時に、過去の人事制度の下にある行政の非民主性と非能率性の根本原因を改めようとした。従来の人事制度は天皇制のイデオロジーたる忠勤義務と官僚制の根幹たる身分的特権的ランキング制を中心として、人事諸制度の統一を保とうとしていたが、それに代うるに民主的で同時に科学的な人事制度を確立しようという試みがなされた。試験、採用、分類、給与、研修、考査、公平審査、健康、安全、厚生、休養、政治的権利、退職等の人事行政の諸事項を統一的に科学的に管理しようと試みられたのである。
 しかし、人事行政は、任命権を始めとして行政管理の一環であるから、行政管理権の主体たる内閣、各省および各庁における行政管理が旧態依然として旧官僚時代の遺風に支配されている限り、また政党内閣としての猟官制度や政党の圧力を受けている限り、また職員組合の政治的圧力などが不当に感ぜられる場合には、人事院による人事行政は内閣その他と孤立または対立する傾向を生まざるを得ない。公務員制度および科学的人事管理の実施によつて、内閣および各省庁の人事管理は多くの点において改善されたとはいえ、人事院による独自の人事行政は徒に煩雑な、実効なき手続を加えたのみである、という批判は確かに存在するし、多少の理由がある。ここに人事制度の形式上の統一と総合は見られたが、人事行政ことに人事管理における思想的な不統一と対立とが見られる。これは人事院が国会との関係において、また公務員自身との関係において、第四院的存在であることから、やむをえない結果であるが、今後は政府機関全体に通ずる人事行政における思想的運用的統一が行われることが望まれる。人事管理を行う主体は人事院にあるのではない。人事院の直接行う人事管理は極めて少く、人事院はいわば人事管理の行われる制度的な枠について関与しているに過ぎない。しかし、人事院は科学的な人事管理のアイデアと技術を普及する中心的な存在であつたといつてよい。
 しかし、科学的な人事行政ということは、当然に反撥を惹起せずにはおかない性質のものである。例えば、職種の分類など人間を身分的またはパーソナルなものと考えて来た封建制度や官僚制度の影響の強く存在しているところへ、職務と分離して考えることなど容易に受け入れられることではない。社会が技術的分業化し、職業が専門化しているならば、官職の分類も常識的に理解される。日本は、米国のように企業の方からそうした科学的管理が始まつたような国とは同一視できない。しかし、今日の日本では、梅も桜も一緒に咲くように、企業も行政も同時にこうした科学的管理の時代に這入つたので、一時の反撥や混乱はあろうが、時代の要請は次第にこの新らしい観念を受け入れるであろう。従つて人事院の果たして来た役割は、多くの反撥と抵抗とを生んだであろうが、決して無用であつたわけではない。かつての占領軍の指令や受け売りのために避け難い一方的なやり方や煩雑な手続という欠陥のあつたことを反省し、今後における創意と工夫、各省庁における人事機関との連絡協力、人間関係に対する深い理解をもつようになるならば、今後の人事行政の発展は期待できよう。

 人事院設置せられて10年、漸くその模倣創生の時期を過ぎようとしている。この10年の経験を反省し、検討して見るならば、そこに幾多の貴重な発見をするであろう。そこに、実際家も学者も協力して解明すべき数多くの問題を見出すであろう。そうして、日本における人事行政も始めて近代的な科学的な基礎に置かれることになるであろう。筆者は次ぎの10年こそ、わが国行政の民主化と能率化にとつて重要な時期となることを固く信ずるものである。

 筆者(写真)紹介
 明治28年11月生れ。大正9年東京帝国大学政治学科卒、大正12年から昭和14年まで東京帝国大学助教授および教授を歴勤。昭和17年衆議院議員に当選、この間東京政治経済研究所を主宰し、中央公論社副社長となつた。また、行政学研究のため数回にわたり欧米に渡航している。
 昭和29年以来現在お茶の水女子大学学長。政治学会理事。行政学会、公益事業学会理事長。
 主要著書 政治学原理、比較政治機構論、英国地方行政の研究、日本における政治学の発達、地方行政論、行政組織論、政治学の任務と対象、ヒュマニズムの政治思想、現代日本文明史、その他。

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483. 蠟山政道=人事院月報第74号(その2) [49.「人事院月報」拾い読み]

 蠟山政道「人事行政に望むもの」(つづき)

 従つて、戦後占領下において突如として採用された公務員制度は、半世紀以上もながく発達し、根を下ろしていた官僚制度の上に置かれ、全く木に竹を継いだように、明らかに一つの断層示した。また、人事行政は勢い新旧の異なつた思想によつて混乱裡に行われざるをえなかつた。それにもかかわらず、日本の後れを取り戻さねばならぬという客観的要請が、占領政策の圧力と相俟つて、新制度の遂行を推進した。人事院は新奇な中央人事行政機関として設置されたが、幾多の反対非難にもかかわらずともかくも十年の星霜を経て、新らしい人事制度と人事行政の在り方とその方向を示した。
 新たな公務員制度とその人事行政の在り方が、過去のそれと異なつている点は、およそ次の三つの点にある。
 その一つは、憲法第15条の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。②すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」という規定によつて、従来の「天皇及天皇の政府の官吏」という観念が制度的に根本的に改められたことである。民主的な憲法は、民主的な政府とその官公吏を必要とする。これによつて、わが国ははじめて民主的な官吏制度をもつことが憲法上可能となつたのである。これは極めて重大な変革であつて、これによつて科学的な人事行政も新らしい職業倫理の問題もはじめて重要性をもち始めたのである。なぜなら、官僚制や独裁制の下では、科学的な人事行政を研究し、実施することは一方的に利用される危険があるのみならず、真の自由な科学的研究も公正な実施運営もできないからである。民主主義の下においてのみ科学精神は育成されうるのであり、新らしい倫理も生れるのである。
 その二つは、人事制度の統一と人事行政の総合とが企図され、従来、服務規律、職階制度、給与制度、試験採用福利施設等バラバラに取り扱われていたのが公務員法においてともかくも統一された。それのみならず、この制度を運用する人事行政の機能として、人事管理の存在が認められ始めたことである。人事制度と人事行政とは、決して同一ではない。前者は法律制度であつて静的な規制にすぎない。人事行政は、人事管理を中核として、人事制度を運用する動的な管理機能である。管理機能は、法律の解釈適用を重要な規準とするであろうが、それのみに局限される活動ではない。それより高次のダイナミックな判断を必要とする管理行政の一環なのである。この人事行政機関の独自の機能とその地位とが公務員制度の中に規定されたことは重要な劃期的意義をもつている。
 第三は、人事院という中央人事行政機関の設置である。人事制度が憲法と公務員法によつて面目を一新したことは、単に人事を政府の行政手段とのみ考え、公務員をいわばその手足とのみ見做して来た過去の人事行政を根本的に改める契機となつた。
 人事制度は公務員自体の人権や利益の保障をも含んでいるのであつて、すべて勅令で処理された旧官僚制度の下に行われた人事行政の如き精神と方法とによつては運営されえない。ここに、国民主権を代表する国会の立場や行政職員の立場をも広く考慮する必要が加わつて来た。人事院が恰も第四院の如き独立的立場を与えられたのも、こうした理論上と実際上の必要があつたためである。
(次回につづく)

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482. 蠟山政道=人事院月報第74号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 昭和32年4月1日発行の「人事院月報第74号」には、蠟山政道が「人事行政に望むもの」と題した巻頭文を寄せている。蠟山政道は、後に「行政改革の憲法」と評される第一次臨時行政調査会の答申(昭和39年)の作成に深く関わる。蠟山行政学は辻清明が継ぎ、辻行政学は西尾勝が継いでいく。「わが国の政治学および行政学の歴史的な発展期において蠟山政道は大きな足跡を残した」(今村都南雄『ガバナンスの探求 蠟山政道を読む』勁草書房、2009年)。
 蠟山の巻頭文全文を掲載する。

 人事行政の望むもの

 人事行政は政治の要諦であつて、古今東西いかなる政治形態においてもその理において変わりはない。「賢能挙用」とか、「治を為すの要は人を用うるより先なるは莫し」とか、「人を用うる者は、親疎・新故の殊無く、惟賢不肖をこれを察することを為せ」とか、いう文句に示されている儒教漢学の教えは、今日の実績、能力等を重んじるメリット・システムとその精神を同じくしている。徳川の封建時代においても、それは治政の要道であつた。
 しかし、人事行政とか人事制度とか、これを制度的にはつきりした目的と方法とをもつて統一的に総合的に人事を考えるようになつたのは、近代国家が成立してからのことである。しかも、注意すべきことは、その統一とか総合とかも、その契機となるものは一方的に統治権を把握している政府当路者の立場から持ち出されたということである。近代国家といつても、非民主的な国家においては、その政治形態に制約されて、人事制度も人事行政も、真の統一と総合とはもたらされえなかつたのである。
 この最もよい例は、戦前の日本の官吏制度である。明治政府によつて制定された官吏法の特徴は、かつて美濃部博士の用いられた表現をかりるならば、「公の勤務法」という言葉によつて示されている。その勤務ということも封建専制の遺制を脱していなかつた。その最も極端な現れは、明治20年7月勅令第39号の「官吏服務規律」である。有名な、その第1条は、この勤務というイデオロジーを最もよく現している。曰く「凡ソ官吏ハ天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主トシ法律命令ニ従ヒ各其職務ヲ盡スヘシ」と。その後、時勢の進展と共に、この勤務の観念の維持振作に困難を感ずるようになつた。官紀の粛正という政治的理由も加わつて、官吏の自覚と協力を求める方向に変つて来た。昭和9年岡田内閣当時の「官吏ノ粛正及行政ノ改善ニ関スル件」という内閣訓示はその一例である。もし、人事制度や人事行政の困難が、ひとり内閣の力によつてのみ打開できず、官吏自身の自覚と協力とが必要とされる問題だとなると、人事制度や人事行政はもつと深くかつ広く科学的に研究され、民主化とか能率化という新しいイデオロジーの上に樹てられねばならなくなる。
 しかし、どこの国でも、そういう新らしい研究は一般的にその発達が遅れていたのである。ファイナー教授の説くところに従えば、「官吏制度は政治的な意識をもつている人にとつては常に問題の一つであつたし、一般庶民によつては屡々厄介なものであつた。しかし、政治制度の科学的研究者にとつては、官吏制度は1880年頃に至るまで明らかに殆んど関心が払われなかつた。この時期において二つの発展が見られるに至つて、官吏制度はその問題が従来よりも非常に多くの人々の注目をあびるようになつた。……二つの発展とは個人主義対社会主義の論争を惹起した根本原因たる政府職能の増大がその一つであり、それと同時に政府職能の増大が官吏の数を増加し始めたことが他の一つの発展である。」このように、諸外国においても、官吏制度の研究が後れていたという一般的理由がある上に、わが国においては、さらに、官僚制度が根づよく発達していたという事情があつたので、官吏制度を民主化し、科学化する試みは到底行わるべくもなかつた。
(次回につづく)

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481. 令和元年全人連モデル [8.トピック]

 令和元年の全人連による旧教(二)(三)のモデル給与表を例によって点検してみた。

 令和元年の人事院勧告における行(一)以外の俸給表改定の考え方は、例年と同じく、「行政職俸給表(一)以外の俸給表についても、行政職俸給表(一)との均衡を基本に所要の改定を行う。」と述べている。
 では、例年同様、格合わせによって点検する。

 まず、令和元年の人事院勧告による行(一)の改定内容について、号俸ごとに改定率を計算する。
 次に、旧教(二)(三)の現行の各号俸について、行(一)との格合わせに基づき対応する行(一)の各号俸の改定率を乗じて仮の改定額を計算する。
 一応四捨五入してみた上で、旧教(二)(三)の計算結果を行(一)の改定内容と比較していく。そうすると、四捨五入の結果、0.1単位の改定率が一致しなくなる。
 例えば、教(三)の2級37号俸は対応する行(一)3級1号俸の改定率0.7(0.6521…)を乗じて四捨五入すると改定額が1,600円で改定率が0.6(0.6346…)となってしまう。そのため、モデルでは改定額を100円引き上げ1,700円とし、改定率は0.7(0.6743…)としている。逆に改定率が0.6ではなく0.7と高くなってしまう39号俸と40号俸については、改定額を100円低くして行(一)の対応号俸に併せている。さらに、41号俸から44号俸については改定率は0.6であるものの、上下の号俸の改定額が1,600円となる中で1,700円と100円高いことから、改定率を0.6で維持しつつ、改定額を各100円引き下げている。概ねこのような感じで、丁寧に凸凹の調整を行っている。

 その結果、旧教(二)(三)のモデル給与表の初任給については、教諭(大学卒)及び講師等(大学卒)に係る初任給について1,700円(対行一:+200円)、教諭(短大卒)に係る初任給について1,900円、実習助手等(高校卒)に係る初任給について2,100円(対行一:+100円)、それぞれ引き上げている。
 「30歳台半ばまでの職員が在職する号俸について、所要の改定を行う」考え方は、行(一)と同じである。

 今回、昨年度までのように特に首をかしげるような点は見当たらなかった。相変わらず、特2級と3級の逆転現象は解消されず、そのまま維持されている。


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