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507. 通勤手当の法律案(人事院月報第86号) [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号には、通勤手当についての法律案が紹介されている。

 昨年の7月16日、人事院は国会と内閣に対して、一般職の職員の給与について報告し、あわせてその改定について勧告を行つたが、その勧告は12月の期末手当の0.15月分の増額とともに、職員の通勤の実情に応じ一定条件のもとに、月額600円を最高限度額とする通勤手当の支給を主たる内容としている。
 (略)
 また通勤手当の支給については、政府は勧告をうけて昭和33年4月1日施行を目途として、最高額を600円とする通勤手当を支給するための必要な法的措置をとるため「一般職の職員の給与に関する法律の一部を改正する法律案」を、3月1日、国会に提出した。
 以下はこの法律案の全文である。

 一般職の職員の給与に関する法律の一部を改正する法律(案)

 一般職の職員の給与に関する法律(昭和25年法律第95号)の一部を次のように改正する。
 第5条第1項中「扶養手当」の下に「、通勤手当」を加える。
 第12条を次のように改める。
(通勤手当)
第12条 通勤手当は、左に掲げる職員に支給する。
 一 通勤のため交通機関又は有料の道路(以下「交通機関等」という。)を利用し、且つ、その運賃又は料金(以下「運賃等」という。)を負担することを常例とする職員(交通機関等を利用しなければ通勤するこが著しく困難である職員以外の職員であつて、交通機関等を利用しないで徒歩により通勤するものとした場合の通勤距離が片道2キロメートル未満であるものを除く。)
 二 通勤のため自転車その他の交通の用具で人事院規則で定めるもの(以下「自転車等」という。)を使用することを常例とする職員(前号の規定に該当する職員及び自転車等を使用しないで徒歩により通勤するものとした場合の通勤距離が片道2キロメートル未満である職員を除く。)
2 前項第1号に掲げる職員に支給する通勤手当の月額は、人事院規則で定めるところにより算出したその者の一箇月の通勤に要する運賃等の額に相当する額がら100円を控除した額とする。但し、その額が600円をこえるときは600円とし、通勤のため交通機関等を利用する外、あわせて自転車等を使用することを常例とする職員についてその額が100円に満たないときは100円とする。
3 第1項第2号に掲げる職員に支給する通勤手当の月額は、100円とする。
4 前3項に規定するものの外、通勤の実情の変更に伴う支給額の改訂その他通勤手当の支給に関し必要な事項は、人事院規則で定める。
   附 則
(施行期日)
1 この法律は、昭和33年4月1日から施行する。
(地方自治法の一部改正)
2 地方自治法(昭和22年法律第67号)の一部を次のように改正する。
  第204条第2項中「扶養手当」の下に「、通勤手当」を加える。
(以下、略)


 通勤手当の支給を求めた1957年7月の人事院勧告の概要を人事院月報第78号(1957年8月号)から抜粋してみよう。

 報告
2 民間給与の実態と公務員給与との比較
 (略)
 また、本院の調査によると通勤手当の実施状況は第3表にみられるとおりであつて、多数の民間事業所がその支給を行つており、月額の平均は550円程度、最高額を制限している場合における最高制限額の平均は630円程度となっている。
 (略)
 以上の諸事情を総合勘案すれば、俸給表の金額を改訂することの必要は認められないが、期末手当を増額するとともに、新たに通勤手当を支給することが適当と認められる。

 勧告文を見ると、通勤手当の支給に要する経費が約13億円であることが記載されている。


 学陽書房の『公務員給与法精義』(全訂版総和62年)は、通勤手当の沿革について次のように解説している。

 我が国の給与制度のなかにこの通勤手当がとり入れられるようになったのは、戦後のことである。その理由としては、戦後における住宅事情の逼迫がとくに都会地において顕著であり、このために多くの者が遠距離通勤を余儀なくされるとともに、これがもたらす通勤費の増大が給与水準の低い若年職員等にとって少なからざる負担となったこと等があげられているとともに、職務と直接関係のないこのような給与が妥当なものとして支持されている根拠は、戦後の住宅事情の下においては、通勤距離の長短が一般的には職員本人の意思とは無関係である場合が少なくないと理解されていることに基づくものであるといえる。… 


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506. 日宿直も教諭の職務(人事院月報第85号) [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号の「資料室」と題するコーナーに、教員の職務にかかわる新聞記事が紹介されている。

 日宿直も教諭の職務

 山形県人事委員会は昨年12月20日、学校火災の責任を問われ減給処分された遊佐小学校金子教諭から出された不利益処分の審査請求に対し、「減給処分を取り消して戒告処分に修正する」との判定をくだした。一昨年の4月5日、遊佐小学校の火災にさいし、当夜宿直していた金子教諭は「学校事故防止の監視を怠つたのは教諭としての職務を果たさなかつた」との理由で教育委員会から減給処分を受け「日宿直は教諭の義務的な職務sではない」と審査請求していたもの。
 判定の内容は大略つぎのとおり
 (1) 学校の校舎、設備の管理保全ためには日宿直勤務は児童の教育を行う上に必要欠くべからざるもので、教員の職務内容には日宿直の勤務が含まれる。
 (2) 教員の職務は独立しておりその職務に関しては学校長の指揮監督の下にはないという請求者の主張は当らない。学校長は所属の教員に対し日宿直を命ずることができ、所属教員はその勤務に従う義務が発生するものと解する。
 (3) 請求者が酒をのんで宿直の事務引継ぎを1時間半もおくらせたことは職務上の怠慢と認められる。
 (4) 処分に当り、教育委員会が請求者の弁明をきかなかつたことは懲戒規定にそむくが、だからといつて問責の事由が消滅するものではない。
 (山形新聞 昭32.12.21)


 この記事を読んで、文部科学省職員による研究会の本に「教諭の職務」についての記述があったことを思い出した。
 『第六次全訂新学校管理読本』(学校管理運営法令研究会編著。第一法規)から該当箇所を抜粋する。

1 教諭の職務
 学教法第三十七条第十一項は、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」と規定している(この規定は小学校に関するものであるが、当該規定は中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校についても学教法第四十九条(略)によってそれぞれ準用されている。また、幼稚園についても(略)。
 したがって、教諭は、教育活動に関する事項をその職務とするのであるが、だからといって教諭の職務が教育活動に限定されるものではない。すなわち、学校においては、実情に応じ、教諭にも学校の施設設備の管理の仕事や事務系の仕事を分担させることができるものであり、そもそも学校には処理すべき種々の校務がある一方、それを処理する教職員数は限定されているのであり、組織体として全員で校務を処理するという観点から、そのように分担する必要があるのである。前述の学教法の教職員の職務に関する規定は、それぞれの職に就いた教職員が果たすべき主たる職務について定めているものであって、それ以上に当該職務に限定する趣旨のものではないのである。このことについて判例でも、「学校教育法第五一条(注・現第六十二条)によって高等学校に準用される同法第二八条四項(注・現第三十七条第十一項)は、教諭の主たる職務を摘示した規定と解すべきであるから、同条四項の規定を根拠として児童に対する教育活動以外は一切教諭の職務に属しないものと断ずることは許されない。もとより教諭は、児童生徒の教育を掌ることをその職務の特質とするのであるが、その職務はこれのみに限定されるものではなく、教育活動以外の学校営造物の管理運営に必要な校務も学校の所属職員たる教諭の職務に属する」(昭四二・九・二九 東京高裁判決)と判示している。


 この読本に引用されている判例は、静岡県の教員が労基法の許可なく命じられた「宿日直勤務」を巡って争った事案であったのだが、実は省略されている部分がある。以下、判決文の該当箇所を抜粋する。

 学校教育法第五一条によって高等学校に準用される同法第二八条第四項は、教諭の職務として「教諭は児童の教育を掌る。」と定めているから、右規定を平面的に文理解釈するときは、教諭の職務は児童の教育を掌ることのみにあると解する余地がないわけではないけれども、学校教育法第二八条は教育活動を目的とする人的・物的要素の総合体である学校営造物の各種職員の地位を明らかにするため、その主たる職務を摘示した規定と解すべきであるから、同条第四項の規定を根拠として児童に対する教育活動以外は一切教諭の職務に属しないものと解することは許されない。もとより教諭は、児童生徒の教育を掌ることをその職務の特質とするのではあるが、その職務はこれのみに限定されるものではなく、教育活動以外の学校営造物の管理運営に必要な校務も学校の所属職員たる教諭の職務に属するものと解すべく従って学校施設・物品・文書の管理保全および外部連絡等の目的をもって行われる宿日直等もこの意味において教諭にこれを分掌すべき義務があり、上司たる校長は教諭に対し、職務命令をもって宿日直勤務を命ずることができ、右勤務を命ぜられた教諭は、あえて法令の規定をまたず職務としてこれに従事する義務があるものといわなければならない。
 そして、このように手続に違法のある宿日直勤務については、法第四一条第三号、同法施行規則第二三条によって、労働時間、休日労働等の関係規定の適用除外が認められない関係上これを労働基準法上の時間外または休日労働と目し、超過勤務として取扱うべきであるとの行政解釈(昭和二三年四月二二日基収第一〇三九号、なお昭和二三年九月二〇日基収第三三五四号)が行われたけれども、そもそも超過勤務手当は、正規の勤務時間をこえて勤務することを命ぜられた職員に正規の勤務時間を超えて勤務した全時間に対し、勤務一時間につき、勤務一時間当りの給与額を一定の割増率によって支給されるものであって、本来の勤務の延長に対する給与にほかならないというべきところ、被控訴人のなした宿日直は、既述のところから明らかなように、その実態において法第四一条第三号規則第二三条にいう断続的労働に該当し、教諭としての本務に附随する職務と見られるべきものであって本来の勤務の延長または変形ではなく、本来の勤務とは別個の労働であること、法第四一条第三号、規則第二三条の立法趣旨に照し、同条の許可は、その存否如何によって時間外労働となるか否かを決するものとは考えられないことからすれば、被控訴人のなした宿日直勤務が右許可を得ない違法なものであったことによって直ちに右勤務に対して超過勤務手当等が支給されるべきであるということはできない。それ故本件宿日直勤務に対する手当の額が超過勤務手当等とひとしい額でなければならないとの被控訴人の主張は失当であるというのほかはない。
(東京高等裁判所判決。事件名 判定取消請求控訴事件。裁判年月日 昭和42年9月29日。事件番号 昭和40年(行コ)23号。裁判結果 一部取消・一部請求棄却)



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505. 林敬三=人事院月報第85号(その2) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き、林敬三の「「公務」の倫理性」(人事院月報第85号昭和33年3月号)を掲載する。

   4
 しかし、「公務」の倫理性は、「私」を否定し、「私」を殺すことばかりにあるのではない。「私」を生かすことに、すなわち国民の最大多数の最大幸福を、場合によつては市井の市民のささやかな幸福をも、実現することを目的とするところに、「公務」の倫理性の第二の意義が認められるものである。東洋古来の政治においても、政道の要ていは、孟子が述べているように民の楽しみを楽しみとし、その実現をはかることに在る、とされていたわけである。まして近代の、民主政治のもとにおいては、国民の自由な活動を尊重し、国家はできるだけこれに干渉せず、消極的に、国民の自由を妨げる行為だけを排除すべきであるとされたレツセ・フエールの時代から、国家が国民のあらゆる生活分野にたち入つて、「生活権」又は「人間に値する生活」を実現するように努めるべきだとされる福祉国家の時代に至るまで、国民の幸福--それは個々の国民についてみれば「私」的なものであるが、最大多数の国民の最大の幸福となると明らかに「公」的な、倫理的なものとなってくる--を保障し、その実現をはかることが、国家なり、政治なりの存立目的そのものと考えられている。「公共の福祉」といい、「国民全体の利益」といわれるものは、まさにこのような種類の利益であり、「公務」は、そのような利益に奉仕し、その実現を目的とするものとして、倫理性を担っているわけである。今日、国家の機能はますます拡大する傾向にあり、「公共の福祉」--「公務」の内容もいよいよ複雑に、量的にも質的にも拡大深化されてきている。したがつて、「公務」の倫理性を維持するためには、「公務」の内容についてのひろい知識と、重畳する各種の価値についてあやまりなくその軽重を判断しうる透徹した識見が要請され、さらにかくて判断したところを実践する不退転の勇気を持つことが不可欠とされている。憲法が「全体」と「一部」とを対置させて、公務員が前者の奉仕者であるべく、断じて後者に奉仕してはならないとしているのは、まさにこのような趣旨と解さなければならない。

  5
 憲法は、その前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し………その福利は国民がこれを享受する。」といつている。「公務」は、このように、信託されたものとして、信託の精神に反しないように処理されなければならない義務を負うている。信託の精神にそうように処理されなければならないという点、「公務」の第三の意味における倫理性が認められると思われる。信託した国民の期待と信頼を裏切るような公務の処理をすること、国民よりの信託に反して公金を浪費し、権力を濫用し、不公正な処理をすることが非難されるのは、それらの行為がこのような意味においても反倫理性を有するからにほかならぬ。内閣は、国会の不信任によつて退陣するが、そういう法律制度の最小限度の要請をこえて、「公務」は信託の精神に従つて処理されなければならないという倫理的義務を負うているのである。
 「論語」によれば、子貢が政治の要ていをきいたのに対して孔子は、「食を足し、兵を足し、民之を信ず」と答え、やむをえない事情があつて省略するとすれば、第一に兵、すなわち軍備を撤し、第二に食糧を犠牲にすることができるが、民の信頼だけはこれを棄てるわけにいかないとして、「古より皆死あり、民信なくば立たず」と答えたということである。東洋古代の政治機構と現代の民主政治機構とはもとより同様ではなく、「民の信」という場合の民は、国政を信託する地位に在る国民とはいえないが、そのような場合においてさえ「民の信」が政治において最も重んずべきものとされたのであれば、今日の「公務」が国民よりの負託の精神に反してはならないという倫理性を担つていることは、きわめて明白といわねばならないであろう。
 「公務」にたずさわる者にとつて何より大切なものは「信」である。それは、孔子二千五百年の昔より民主政治の現代に至るまで変らない心理であろう。

  6
 以上、三つの意義における「公務」の倫理性をあとづけてきたのであるが、これらは平面的に並列して考えるべきものでなく、相互に因となり果となつて、渾然一体の関係をなしている。そして、これらをその窮極においてささえるものとして、私は、国家そのものがもつ倫理性を指摘したいと思う。もとより、ここにいう国家は、政治とか制度的意味における国家機構ではない。社会学の始祖と呼ばれるオーギュスト・コントの言葉に「社会は、現在の成員のみから成るものではない」というのがある。自分の意思によつて、どこの国に生まれるかをさえ決めることのできない人間、遙か昔の祖先から遠い将来の子孫をも含めて生成発展する全体としての国家、人為的に作りかえることのできる政府とか精度的意味における国家機構をこえて生きつづける、このような無形の、倫理的団体又は倫理的な人間関係想定することによつてのみ、古来、諸国民が、そして現在においても世界の各国民がそれを守るために生命を賭しても当ろうとすることの倫理性が、肯定されるのではなかろうか。「公務」の倫理性は、窮極において、このような意味における国家のもつ倫理性の反映であり、それに淵源するものであると信ずる。

著者紹介:明治40年生、昭和4年東大法卒、内務省に入り、内務省人事課長、鳥取県知事、内務省地方局長、宮内庁次長等を経て、現在防衛庁統合幕僚会議々長。



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504. 林敬三=人事院月報第85号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 1958年3月号の人事院月報第85号の巻頭論評は、内務官僚で初代統合幕僚会議議長を務めた林敬三の「「公務」の倫理性」を掲載している。

 「公務」の倫理性

  1
 「政治の範囲は頗る広汎である。従つて一国の政治を行うには、いろいろの設備も必要であり、訓練ももとより必要である。官吏として公務に携わるものを軽蔑するのは一般のならわしであるが、これはいかにも浅薄な考えである。賞賛すべきことをかえつて軽蔑しているからである。工業組織といい、公益事業の監督といい、農業問題といい、犯罪及び衛生問題といい、それらはいずれも専門的な知識を必要とする極めて面倒な問題であつて、党派政治とは全然区別しなければならないものである。しかもこれらの問題は、それを取扱うについて充分な知識を要することはいうまでもない。政府にして充分に責任を尽くさんとするならば、行政上に必要な優秀の分子を多々益々吸収する必要がある。現在の政治問題は、主として社会科学の力を借りなければならないのであるが、それには、どうしてもできるだけ公平無私の判断が必要である。」と米国最高裁判所判事フエリツクス・フランクフルター氏は述べている。われわれは謙虚な気持ちをもつてこの言葉を読み、そして自らの励みとしたいものである。選挙によつて選出される議員は、民意の在るところを忠実に反映し、国政が究極において民衆の意志に基づいて行われるようにするための重大な使命を担っている。それは民主政治にはなくてはならぬものであるが、それだけでは近代の民主政治は完全に行われない。それと同時に専門の知識技能と不偏不党の公正さと国家、国民、公共社会に対する一貫した誠実とを持つ大ぜいの公務員たちがあつて、この両者の協力一体の妙が発揮されてこそ、はじめて複雑な進歩した行政を公正な軌道にのせて進めることができるのである。それゆえフランクフルター氏は、行政職務の尊さ、大切さを説くとともに、公務員に、専門知識技能の他公平無私の心構えの必要性を求めているのであろう。
 また、元大審院判事三宅正太郎氏はその著『裁判の書』の巻頭において、「裁判の精神は正義の体現にある。」と述べ、現実にいかなる心構えで裁判をなすべきかの道を豊富な実例をもつて具体的に明らかにされたが、そのことは、多くの司法官の今も深く銘記するところである。
 私は、ここにたまたま二人の司法官の言葉を引用したが、両氏の述べられたところには、ひろく公務員一般に通ずる真理が含まれていると思う。公務員が、公平であり、無私であり、そして誠実を旨とし、正義を体現すべきことは、特に公務そのものの持つ倫理性に基くと考えられるからである。

  2
 憲法は、周知のように「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」(15条2項)と規定しており、国家公務員法は、これを受けて「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務」すべきことを服務の根本基準の一と定める(96条1項)とともに、「公衆に対する争議行為及び怠業的行為」(98条5項)並びに「官職の信用を傷つけ、又は官職全体の不名誉となるような行為」をすることを禁止し(99条)、秘密を守る義務を課し(100条)、政治的行為の制限を定めている(102条)。また刑法は、公務執行妨害罪を設けて公務の執行を担保し(95条-96条の3)、瀆職罪を設けて公務の公正な執行を確保しようとしている(193条-198条)。およそ、すべて正業といわれる限り、いかなる業務も、それぞれの倫理性を持つているのであるが、特にこのような規定を通観すると「公務」は、他の業務に比べて特別に倫理的色彩を帯びており、公務を遂行するにあたつて公務員に要請される倫理とならんで、その根本において、「公務」自体の倫理性があることを物語つている。しかも、元来、法は道徳の最小限度の要請を示したものにすぎないのであるから、「公務」には、法に示されている以上の、高い、また深い倫理性があるものとみてよいであろう。今日、公務員の汚職、職権濫用、公金の浪費その他について国民一般の公務員に対する批判は、まことにきびしいものがある。綱紀の粛正、汚職の追放は、政府の重要施策の一となつており、国民またこれを支持し、期待している。しかし法に規定され、人から求められて他律的に行うことは、すでに倫理の本質に反する。綱紀の粛正といい、汚職の追放といい、公務員がすすんでかかるよこしまなきを期するためには、なによりもまず、みずから「公務」の倫理性について、充分の理解と自覚とをもつようにすることが先決であろう。
 私は省みて公務の倫理性を説く資格のある者ではないが、この問題の重要性にかんがみ先達の言に学びつつ、読者とともに反省し、今後その本質を究めて行く上の緒口として行きたいと希うものである。

  3
 「公務」の倫理性の第一の意義は、「私」に対するもの、いわば「私」の否定としての倫理性であるということができるであらう。「公」は訓読すれば「おおやけ」であるが、『大言海』によれば、「おおやけ」とは、「私(わたくし)ナラヌ、官(おおやけ)ノ意ヨリ移」つた言葉で、すなわち、私なきこと、私ならぬこと、が「公」の本義とされている。「公務」の倫理性も、まずは、そこに見出される。公務員も人間であり、家族もある以上、自己及び家族の幸福を願うことは当然であり、その点他の職業と異なるところはないのであるが、「公務」と私生活とは厳に区別すべきであり、公職に在る者がその地位を利用し、又は公務に名をかりて「私」のすなわち自分一個の利益をはかり、あるいは自己の愛憎の念により公正な処理を欠くがごときことは、言うべくしてその実行はけつして容易なことではない。容易なことではないが故に、それが倫理とされるのであり、不断の反省、修養、鍛錬によつてそれに到達すべきことが要請されるのであり、古来私心を去つて公務に尽くした人の価値がたかく評価されるゆえんであろう。
 三宅正太郎氏が、前述の『裁判の書』に引用されている京都所司代板倉周防守重宗が、公務の判断のうちに「意識しての私意」が入らぬようにすることは、日常精進をおこたらざるにおいては必ずしも不可能ではないが、さらに「意識にのぼらぬ私意」が心のすきに入り込むことなきを期することは、難中の至難事であるとして、毎日、身命をかけて、神に祈つたという事例は、ひとり裁判の精神を示すにとどまらず、すべての「公務」に共通の精神であり、理想を示すものといわなければならぬ。もとより、神に祈るということは必ずしも要素ではないのであつて、要は、真剣に、私心を去るための強い反省と正しい努力をすることが大切とされるところであろう。
(続く)


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503. 辻清明=人事院月報第81号(その2) [49.「人事院月報」拾い読み]

 前回に続き、辻清明「”人事行政の本旨”とはなにか」(人事院月賦第81号1957年11月発行)を掲載する。

 議院内閣制と人事行政との関連

 人事院の独立が違憲である、という批判は、かなり久しいものである。それは、国家の複雑多岐な統治をロックやモンテスキュー以来おきまりの素朴な三権に分類し、立法でもなく司法でもない一切の機能を、見境いなく、行政という単一の範疇に投げこんでいる形式論が生み出す論法といつてよい。現代のごとく、准立法や准司法の作用を併有する行政の種類が生ずるに至つては、これからの行政をモンテスキュー流の素朴な行政と同視することは、現代統治の内容を誤認させる結果になる。したがつて、この種の新しい行政は、人事行政をも含めて、当然、国家の最高機関である国会や、主権者である国民に、直接責任を負うものとして、首相の統制範囲から除外したほうが妥当であろう。
 このことは、私たちをして、議院内閣制と人事行政ないし公務員制度との関連についての考察へ導かざるをえない。なぜなら、議院内閣制は議会に対する行政の責任を、内閣が負う建前となつているからである。だが、イギリスの場合とちがつて、わが国の議院内閣制は、完全なものではない。げんに国会が最高機関であると定めながら、裁判所の規則制定権や司法権の独立を認めているのみならず、地方団体についても一定限度の自主立法権を許し、かつ特別法に関する住民投票の制度をも採用している。もちろん、裁判所や地方自治の場合には、憲法の明文で保障されているが、とにかく、議院内閣制といつたところで、その内容は、固定したものとはいえない。公務員制度について、直接このような規定のなかつたのは、その重要性に関する認識の浅さにもよるが、強いて憲法のなかにそれに該当する条文を求めれば、もとよりないわけではない。第15条に定める「公務員に対する国民主権の原則」と、「公務員が特定党派の使用者でない宣言」が、これにあたる。
 議院内閣は、当然、政党を母体とする内閣である。ところが、その時々に政策を異にして現れる特定の内閣が、人事行政を完全に掌握するならば、国家公務員は、一定党派の私兵に化する危険がある。とくに、ブラウが、その好評の近著「現代社会における官僚制」(1956)のなかで指摘しているとおり、民主制と官僚制との差異が、「少数派の自由」の存否にあるとしたならば、偶然比較多数の議席をえた政党が、巨大な人事を掌握して、本来の勢力が表示せるよりも遙かに巨大な権力を振うことにもなりかねない。そうなれば、これと逆比例して、本来の少数派は、その勢力よりも、遙かに小さい発信権しかもつことができなくなり、その自由は限定されざるをえまい。これでは、すでにブラウのいう官僚制の性格が濃厚に現れているものであり、公務員制度の掲げている目的からは、およそ遠いものといわねばならない。もともと議院内閣制は、国民のあらゆる層の意思を、国会に反映することを目的とし、そこで定められた法規を、できるだけ忠実に執行することが、とりも直さず国民の意思に忠実なる所以であると考えたところに成り立つた。ところが、議院内閣制が、巨大な公務員制度の出現に当面し、いま挙げたごとく、本来の使命の達成に障害を受けるならば、当然反省すべきことは、そのよつて生れてきた議院内閣制の使命に立ち帰ることであろう。この反省を生かしその本旨を達成するための条件をあたえているのが、とりも直さず、ここにいう憲法第15条である。第15条が、議院内閣制を生み出した代表政治の真の意図を、20世紀の今日において、より完成するという重要な使命を秘めた条文だと解釈することは、それほど牽強付会の辞だとはおもえない。


 改定は「人事行政の本旨」に基づいて

 このように見てくると、人事行政を、内閣から独立した人事院でおこなうことは、公務員制度の本旨から見ても、決して違憲とはいえないようである。もちろん今日の人事院が、理想の形態であるとはいえない。人事院の構成等についても、諸外国の例を参照してまだまだ考慮しなければならない点も多い。ただ改革がいかなるものであるにせよ、それは常に、私の指摘したような「人事行政の本旨」の理解の上に立つものであつてもらいたい。改革理由が、内閣責任の一元化や行政の便宜といつた安易なものであつては、それこそ代表政治の原理に背くものといつてよい。

 著 者(カット写真)紹介…大正2年生 昭和12年東大法学部卒 現在東大教授、行政学会理事 著者「行政学講義」「日本官僚制の研究」「社会集団の政治機能」


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502. 辻清明=人事院月報第81号 [49.「人事院月報」拾い読み]

 1957年11月発行の人事院月賦第81号巻頭論評には、「日本官僚制の研究」「公務員制の研究」等を著わし、東大法学部で行政学の教鞭を執り、長らく日本の行政学を牽引してきた辻清明が「”人事行政の本旨”とはなにか」を寄せている。
 
 ”人事行政の本旨”とはなにか

 制度の改定にあたつて

 およそ、制度はそれ自体が目的ではない。いかなる制度といえども、すべて、一定の政策を、もっとも効果的に実現するための手段であり、枠組である。したがつて、ひとたびでき上つた制度であつても、これを永久に改めてはならないというものではない。必要が生ずれば、制度自体は、常に改変のメスを加えられる運命にある。いわば、制度は、運行を容易ならしめる軌道の意味をもつているといつてよい。
 けれども、もし軌道が、無目的に、あるいは不断に変更をうけているならば、おそらく輸送の混乱を生じるであろうごとくに、制度も、ひとたび定着した以上、変改の目的があいまいなままに、もしくはその充分な体験を経ることなく、徒らに「制度いじり」の運命に逢うならば、国政の方向は、徒らに動揺する懼れを招くであろう。「朝令暮改」という言葉があるが、そうした非難をうけないためには、制度を改定する場合に、その制度が奉仕する目的と意義に対する充分な認識が、あらかじめ、とくに必要となる。なぜなら、制度のより良き効果を狙つた改定が、あたかも、角を矯めて牛を殺す結果になることは屡々見られるところだからである。最近問題になつている公務員制度の改定についても、やはり、同様のことが妥当する。永い間、わが国では、官吏制度は、大権事項とされ、官吏は天皇の官吏と自他ともに看做していたところから、人事行政ないし公務員制度の意味を学者も政治家も行政官も、それほど厳密に検討していない憾みがあつた。したがつて、このような雰囲気のなかで、制度に対する完全な理解なしに、その改廃を論じ、かつ実行することは、砂上に軌道を敷く棄権をもたらさないとも限らない。そこで、改定の声が高まつてくるのを機会に、「人事行政の本旨」をしばらく、考えてみたいとおもう。


 人事行政は基盤行政である

 まず第一に、私は、人事行政が通常考えられているのと異なつて、特殊な内容をもつ行政であることに注意を促したいとおもう。すなわち、人事行政は農林行政とか商工行政といつた職能別の行政と異なるのはもとより、予算や企画に関する行政以上の意味をもつている。なぜなら、いわゆる一般行政は、公務の運営を意味するのであるが人事行政は、この公務を運営してゆく「基盤行政」であり、その適正なる配置が乱れれば、たとえいかに卓抜なる企画であれ、あるいはどれほど豊かな経費や資財が用意されていようとも、その行政は失敗に終るほかないからである。かりに、これが逆の場合だつたらどうであるか。企画も拙く、資金も乏しくとも、運営に適格なる人事の配列がえられたならば、その結果は最善といえないまでも、おそらく失敗の烙印を押されることはあるまい。その意味において、人事行政は、他の行政とは、まつたく範疇を異にする行政なのであつて、ヘルマン・ファイナーが、「人事の問題は、行政の核心である」(the question of personnel……,that is the heart of the administration)と述べた意味も、この点にあると考えてよかろう。
 人事行政は、一切の行政の土台である。したがつて、その地位も、当然その価値にふさわしい場を占めなければならない。第二次大戦後に、アメリカのすべての政府機構にわたつて、その合理的再編成をおこなうように勧告した「フーバー報告」が、各官省の内部において、人事主任官に、最高の管理的地位をあたえるように要求しているのも、もつともである。わが国の各省や地方団体で、人事行政の合理的運営をおこなうものが、次官または副知事・助役に匹敵する地位を占めるようになれば、人事の異動に際して、二、三の幹部が鳩首協議をこらすという不明朗で部内の士気を沈滞せしめるような光景もしだい跡を絶つようになるであろうし、地方首長の選挙のたびごとに、選挙後に来るべき地位の異動に一様の不安を感ずるひとたちの気持の動揺も薄らいでゆくであろう。
 人事院や地方の人事委員会、公平委員会から、人事行政に関する大幅の分権化を要求する場合には、これらの各省や地方関係当局は、当然、引きうけた人事行政に、それに適当なる高い処遇をおこなう覚悟だけはしておいてもらいたいものである。なぜなら、いかなる行政組織も、それは公務員相互の人間関係にほかならず、もしこの体系が、人事の適格性を喪つたならば、能率の低下や費用の濫費はもとより、そこに特権官僚が生じ、官庁の割拠性がはびこり、さらには利権に身を売つたり、政党によるスポイルス(猟官)がばつこする結果となるからである。これらの弊害を予防して、すべての分野における公務の円滑にして公正な運営を確保するところに、人事行政のもつ重大な使命と役割がある。その意味において、人事行政には、他の行政とちがつて高度の統治的性格が含まれていると考えてよい。


 公務員制度は統治的性格をもつている

 さて、人事行政を、このように統治的性格をもつものとして理解するならば、もはや厳密にいつて、人事行政に通常の用語法で慣れている行政という名称を与えることは、必ずしも適当とはいえないようである。むしろ、それならば、人事行政というよりも、公務員制度と名付けたほうが適当であるかもしれない。それは程度の差こそあれ、地方自治の制度、独立の司法権の制度等と同一の次元で考えられる統治的性格をもつものと見たようがよい。
 地方自治の制度や司法権の独立が、今日、暴政や特権の政治を防止するための統治的意義をもつていることは、近代国家の発足以来の長い歴史的事実に照らして、すでに人々の承認しているところである。地方自治が、やがて国家の民主的基礎を強化する条件であり、司法権の独立が、人権を擁護するための必須の前提となつている事実は、もはや自明のこととさえいつてよい。にもかかわらず、公務員制度について、その統治的性格の自覚が人々の間で十分なされていなかつたのは、民sy性の発達した国では、社会における行政の比重が軽く、猟官制の慣習からも判るとおり、公務員に大きい期待を抱いていなかつたためであり、他方、官僚制の支配していた国においては、公務員は、むしろ君主の大権のなかに没入して、客観的な公務員制度の存在そのものを検討する余地すらなかつたせいだといつてよかろう。
 いわゆる職能国家ないし行政国家の現象が出現するにともなつて、20世紀以降、公務の対象とする社会分野が拡大しはじめるに及び、社会生活に対する公務の比重は、次第に増加することになつた。こうして公務員制度そのものの統治的性格に対する関心が、否応なく高まらざるをえなくなつたのであるが、その点では、地方自治や司法権の独立に比べて、評価される歴史が短かいため、二者に対するほどの強い理解を世人はもちえなかつたのである。人事行政を単なる行政としてではなく、むしろ統治的性格を内在せしめている公務員制度として評価することは、こんごとくに必要となるであろう。もし、公務員制度を、このように理解することが許されるならば、当然この制度の運営は、わが国のいわゆる憲法第65条や憲法第72条に定めるところの「行政」の観念よりも広汎な意味をもつことになり、そのかぎり行政権に責任を負う内閣総理大臣から独立した地位をもつ人事院が、ここでいう意味の人事行政を所掌したところで、巷間いうような違憲呼ばわりは、かならずしも、正鵠をえたものとはいえない。
(続く)


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